エッセイ50 (2017年11月9日著)
スピリチュアルな洞察が、どのようにあなたの生活の役に立つのか?
認識を一新することの考察:「それ自体」を知ることで、
苦しみから解放されるのは、何故なのか?
著者:加藤優
第二章:スピリチュアルなアプローチとは何なのか?Part
1
スピリチュアルな洞察の核心その1:苦しみとは誤った認識から生まれる
第一節:苦しみから解放されるための至高の知恵
ヒトはなぜ苦しみ、その苦しみから解放されるためには、どうしたらいいのでしょう?ヒトの苦悩の本質とは、何なのでしょうか?
その問いへの答えとして、ジーザスや仏陀といった霊性の伝道者、20世紀中最高の賢人と言えるクリシュナムルティ、アメリカに禅を広めた鈴木老師、ヨギとして著名なパラマハンサ・ヨガナンダ、彼らを始めとして、ほぼ全ての精神覚醒者たち、聖者たち、賢人たちは、同じ結論に達しています。それは、精神覚醒の修行徒が、個々に、その見地にたどり着いたというだけでなく、その見地については、古今東西、全ての宗教、哲学や心理学といった分野でも同意が得られています。人類は、何千年も前から、その答えを既に見出しているのです。
苦しみから解放されるために、人類が長い歴史を通じて到達した至高の知恵、それを、僭越ながら、筆者である加藤が、かなりぶっきらぼうに簡略化して、次の2点にまとめあげさせていただきます。
(1) あなたが苦しむのは、あなたに苦しみを与えている(原因だと思える)事象を間違って認識しているからなのである。であるから、その認識を修正出来れば、苦しみから解放される。
(2) そもそも、あなたはあなた自身を間違って認識している。本当のあなたとは、事件や事故、もしくは不遇な状況によって、傷つけられたり損なわれたりするようなヤワなものではない。あなたは、あなた自身を小さく、か細く、非力な存在だと定義しているがゆえに、「私は、傷つけられた(または、無視されたとか、攻撃された)」と感じて、あなたは苦しむのである。であるから、その自己認識を修正し、そもそも、あなた自身が他者から攻撃され得ないことを理解できれば、苦しみから解放される。
上記、一点目を本章で、二点目を次章で議論します。以下に、誤認識があなたをいかに苦しめているのかを解説していきます。
第二節:苦しみは自作自演である。
仏陀は次のように指摘します:「あなたがもがき苦しんでいる、その苦しみとは、実は、あなた自身が作り上げたものなのだ。であるから、あなたがそれを止めさえすれば(自分で苦しみを作り上げるのを止めれば)、あなたは苦しみから解放される」。
苦しみとは自作自演であること、それを、人間関係の比喩で使われる「壁」を取り上げて説明しましょう。あなたが誰がしかとの人間関係がうまくいかず、打ち解けあえず、楽しめず、疎遠であるとしましょう。あなたは、その人との間に、あたかも「壁」があるように感じます。その「壁」が威圧感をもってあなたの前に立ちはだかり、「壁」があたかも腕をもっているかのように、「壁の腕」があなたを遠くに押しやっているように感じます。そう感じるがゆえに、あなたは「壁」があるために、その人との関係はうまくいかない、と結論づけます。
そして、「壁」の正体は、その相手があなたに対して抱いている嫌悪感だと、あなたは想定します。その人があなたを嫌うが故に、その嫌悪感が、どす黒い雲として、その人を取り巻き、あなたの目にその人が映らなくなり、二人の間の距離感が芽生えているとあなたは理解します。その人のあなたへの嫌悪を、あなたが「壁」として認識していると、あなたは自覚しています。
しかし、そもそも、実際には、そこには「壁」などありはしません。そうではないですか?「壁」はどこにあります?あなたは、それを指させますか?指させないですよね。あなたが、感じているのは、「近寄りがたい」という感覚ですよね?「壁」とは、あなたがその人に近づくのを怖気づいている、その躊躇感に他ならないのです。しかし、あなたは、「私が躊躇しているから、その人との人間関係がうまくいかない」とは理解しません。あなたは、それを自分のせいにはしたくありません。すなわち、「壁」とは、あなたがあなたの躊躇感を正当化するために、あなたの心が捏造した、幻想なのです。その相手が「壁」を築いているから(=その人のせいで)、あなたがその人に近づけないと、理解した方が、あなたにとっては、気分がラクになるのです。
仏陀は、次のように指示します。まずは、その人に近づくのを恐れている自分を、丸ごと認めてしまえ、と。これまで親しくなかった人と、交流することには、自然と恐怖がつきまとう。しかし、それでいいのだ。それは、誰にとっても怖い。怖いものを怖いと認めてしまえ。そして、「その人と仲良くしなくてはならない」というような義務感を捨ててしまえ。その人と仲良く出来ない自分を許せ。そんな感じで、あなたがあなた自身に寛容になるのなら、あなたの肩の力が抜けて、あなたは自然体になれる。自然体とは、その人と接する際に、「私は○○でなければならない」という意識が全くない状態だ。あなたが、自然体でその人と接するのなら、何ら特別な意識を払うこともなく、何がしかの打ち解けあえるきっかけを、自然と見つけるようになる。
とどのつまり、仏陀の観点によれば、人間が苦しむのは、はなはだ、事象を誤解しているからなのです。それは喩えれば、次のような遭遇なのです。あなたが路上にある木の棒きれを見かけたとき、あなたはそれを蛇だと思ってしまいます。そして、あなたはそれを蛇だと思い込んでいるがゆえに、それが動いてあなたに近づいているかのように錯覚します。実際に、それに近づいているのはあなたであるにも関わらず、あなたの目には、それがあなたに近づいているように感じます。あなたは、「蛇に噛まれる」と怯え、腰を抜かし、びっくりして転倒して、怪我してしまいました。
あなたのとある事象への誤解は、次の二段階を経ます。
第一段階:問題では無いことを、問題だと認識する。問題の存在しないところに、問題を見出す。本質的には危険では無いものを危険だと思う(例:棒きれを蛇だと思う)。
第二段階:誤認識した危険に対して、過剰反応が起きる。あなたは、その危険によって、自身の命を落としてしまうとか、勤め先の会社が倒産するとか、家庭が崩壊するとか、子供の今後の人生が滅茶苦茶になるとか、国家が転覆するとか、世界が崩壊するとか、甚大な被害が発生すると感じる。(注:あなたは、理屈上そうはなりはしないことを理解していますが、あなたの感覚的には、あたかも世界が終わるかのように感じてしまい、息はあがり、汗をかき、身体は震え、眠れなくなります)
この過剰反応を、上記の、棒きれを蛇だと勘違いしているケースで説明します。その「蛇」に噛まれたら、あなたは「わたしはお終いだ」と感じている。そう感じるからこそ、あなたは腰を抜かすのです。
しかし、それが過剰反応であり、そこまで感じる必要は必ずしもないことは理解いただけるはずです。それが仮に本当に蛇だとしても、それは無毒な種かもしれません。仮に、それが毒蛇で、あなたが噛まれたのだしても、その毒が死に至るほどの猛毒であり、致死量を摂取しているとは限りまえん。それが仮に、死に至る猛毒だとしても、病院で血清により治療を受ければ、あなたは助かります。しかし、あなたは、あたかも、あなたが無限で無人の荒野で、猛毒の蛇に噛まれて、瞬時に命を落としてしまうかのような、反応を示すのです。
あなたが日常生活で感じる問題、おおよそ全ての問題は、それが深刻な問題としてあなたに感じられるのは、実は、誤認識によるものなのです。それが、夫婦や親子間の人間関係の問題であれ、家計の問題であれ、教育上の問題であれ、その問題を誤認識しているが故に、あなたは苦しむのです。
あなたの認識が間違っていると、私が指摘する時、それは、あなたがまるで麻薬中毒患者のように幻覚を見ていると(例:道を走る車が、ヒトの声を発し、あなたの名前を呼びながら動いているように見える)、非難しているわけではありません。私が言わんとしているのは、とある対象を、あなたは無意識のうちに特定の前提や偏見を通して見つめているがゆえに、「それ自体」を認識していない、と言おうとしているのです。あなたは、あなたの脳内のイメージを見ているのであり、「それ自体」を見ていないのです。
既述の、路上に落ちていた棒きれを蛇だと勘違いしたケースでは、あなたは、その棒きれ、「それ自体」を見つめてはいません。あなたは、あなたの脳内に浮かんだ蛇のイメージを見つめているのです。あなたは、あなたの脳内に浮かんだ、あなたの解釈を見ているのであり、対象そのものを見ていないのです。これを、私は、誤認識だと言っているのです。
もう一つ例をあげましょう。あなたが、リンゴを、街角の評判の良くない果物屋、普段から半分腐ったような果物を売っているような店で、格安で買った(例:10個20円)としたら、どうでしょう?あなたは、そのリンゴにどんな印象を持つでしょうかね?あなたは、「きっと、このリンゴも店頭で何日もたって古くなったやつなんだろうな」と思うはずです。そして、そう思った瞬間に、あなたは手元のリンゴが、本当に古いものであるように感じてしまうはずです。この時、あなたは、リンゴ「それ自体」を見てはいないのです。あなたは、心の中でそれに対して浮かんだ印象:「あの店で売ってたんだから、このリンゴも古いんだろうな」という印象を、見ているのです。これがお分かりいただけますか?
そんな店で入手したリンゴであっても、あなたの手元のものが古いものであるとは限らないですよね。もしかしたら、そのリンゴは、十分新鮮なものであるかもしれません。それに実際、そのリンゴの見かけ上は、当たり傷もなく、問題無く見えるとしましょう。その鮮度は、あなたがそれを実際に触り、触感からリンゴの皮の張り具合を確かめ、あなたがリンゴを口にして、それがどの程度みずみずしいのかを味わって初めて分かることなのです。ところが、実際にリンゴを口にする前に、あなたには、それが古いものだと思えてしまって、全く疑いを持たないのです。私は、その思い込みを、誤認識だと言っているのです。
あなたが、とある対象を、いったん、「それは、××だ」と思い込んでしまうと、実際にそうなのかを確認する前に、対象が××の状態にあることが真実であるように思えてしまうのです。そんな例はごまんとありますよね?例えば、あなたの職場に、新しい課長があなたの上司として、着任したとします。噂によれば、彼は前の職場で、部下の女性と不倫をし、任侠沙汰にまで発展してしまったが故に、配置換えされたとのことです。この時、あなたは、彼を「この人は不誠実で、信用できない」と思い込むはずです。
さて、この例において、あなたは、その噂が本当なのかどうかを確認したわけではありません。仮に、彼が不倫していたのが事実なのだとしても、心底反省をして、心を入れ替えて、もう同じ問題を起こしたりはしないのかもしれません。少なくとも、勤務上は、十分に信用して良い上司なのかもしれません。しかし、そういった可能性は全て捨象されてしまい、あなたは、「彼は信用できない」と信じこんでしまうのです。一度、あなたの脳内で、イメージが出来上がってしまうと、それは恣意的な絵であるにも関わらず、その絵を真実だと、あなたは思い込んでしまうのです。
問題の本質は、とある事象について、あなたは、その事象「それ自体」を見つめているのではなく、その事象について、あなたの脳内に浮かび上がった「イメージ」、「思い込み」、「前提」のみを見つめていることなのです。そして、このことについて、仏陀は、とても奇妙な真実に気づきました。
我々が、昼間に活動している間、我々は起きている(眠っていない)にも関わらず、我々は脳内の「イメージ」しか見ていないのです。これは、夜睡眠中に夢を見ているのと同じ状態なのです。確かに、あなたの目は、あなたの身体の前に存在する物体の映像をとらえているのです。しかし、あなたは、その物体「それ自体」を見てはおらず、あなたがその物体に付与した「イメージ」しか見ていないのです。我々は、皆、起きているにも関わらず、眠っている状態にあるのです。
例えば、あなたの目の前に、ダイニングテーブルがあるとします。あなたの肉体の目は、そのテーブルの存在を視覚的にとらえて、あなたには、そのテーブルの存在を認識しています。このとき、あなた自身は、何の先入観もなく、「そこにテーブルがある」ことに気づいている、と思っています。
しかし、実際には、あなたの心の内側は、そのテーブルと関連する思い出やセンチメントで占領されています。例えば、かつては、そのテーブルであなたのご主人、子供達二人、家族四人で、毎日楽しく食事をとっていました。しかし、あなたの夫は死去し、子供は独立し、現在は、あなたが一人でそのテーブルで食事をしています。このとき、あなたの意識は、そこにあるテーブルを、かつての家族の絆の象徴として見てます。かつての温かい家族の触れ合いを懐かしく思い、また寂しさと寂寥感が、あなたの内側で溢れています。そうです、このとき、あなたは、テーブル「それ自体」を見つめているのではなく、あなたは、脳内に溢れる、テーブルにまつわる「思い出」を見つめているのです。
語弊を承知でぶっきらぼうに表現すると、その状態は、眠って夢を見ている状態と同じなのです。夢をみている状態は、脳内に浮かびあがった映像のみを見ている状態です。我々は、日中、目を開いて、活動しているにも関わらず、我々が見ているものは、脳内の「イメージ」だけなのです。我々は、日中、夢遊の状態にあるといっても過言ではないのです。
この現実を、仏陀はとても奇妙に感じました。街中を歩いている人達、彼らの身体は動いているけれども、彼らの意識は、いわば睡眠中のような状態で、脳内の「イメージ」だけを見て、街中を歩いているのです。あなたは、身体は起きているが、あなたは夢の中にある。そして、あなたの周囲の人も同様に、身体は起きているが、夢を見ているのです。夢の中にある人達同士で、口論や喧嘩が発生して、皆が夢の中で、悩み苦しんでいる。
そのことを確信した、仏陀は、こう宣言したのです、「刮目せよ!」と。あなたは、脳内の「イメージ」しか見ていない。その夢の状態から目覚めよ、と提言をし始めたのです。皆が夢の中で苦しんでいるのだから、その夢から覚めればいい、というのが、仏陀が提唱する、苦しみから解放されるための処方箋です。
では、夢から覚めて、脳内の「イメージ」を見るのではなく、対象「それ自体」を見るようにしたら、世界とはどのように映るのでしょうか?「イメージ」や「思い込み」や「前提」をなくして、とある対象に触れたら、それは、どう見えてくるのでしょう?本章は、それを考察するべく、以下に、議論を深めていきます。
第三節:ケーススタディその1:あなたは、子供の事態をどう理解しているか?
では、ここで、序章で取り上げた、あなたの息子さんが学校で授業に集中できず、学校から改善を要求されているケースを、再びここでとりあげ、あなたがそれをどのように誤解して、どのように苦しんでいるかを、以下に、議論します。まずは、序章でとりあげた段落を、そのまま再び掲示します。
…………例えば、あなたの息子さんに問題が降ってわいてきたとします。あなたの小学3年生の息子さんが、学校で常に落ち着きがなく、授業は上の空で、時に奇声をあげたり、教科書を放り投げたりしているとします。担任の先生が再三にわたり彼に注意しますが、彼の態度は変わりません。先生から報告を受けたあなたは、彼に厳しく、授業に集中するように厳命しますが、なしのつぶてです。とうとう、学校側から教育委員会との連名の書状にて、「今後3か月以内に彼の態度に改善が見られない場合は、特殊学校に転校させる」という通達が、あなたのところに来ました。さて、あなたは、この事態にどう対応しますか?方針や方向性を見出すのに、世の中のどこを探そうとしますか?
この状況を、あなたは、次のように認識するはずです。
あなたの認識・状況の評価:学校の授業に集中できないというのは由々しき問題である。これまで息子が怠惰な子にならないように、注意して子育てしてきたが、怠け者としての悪い癖が学校で表面化していることはとても残念だ。成績が低下し、内申書での評価が下がれば、将来の進学において影響がでるかもしれない。それはともかくとして、息子が奇声をあげたりして、授業を妨害して、先生や他の生徒達に迷惑をかけているのは、すぐにでも止めさせなければならない。もし、彼が特別学校へ転入せざるを得なくなったら、それは大変だ。特別学校とは、とどのつまり、障害を持った子供達が集まる場だ。知恵遅れの子供のペースに合わせるために、個々の授業も簡略化されてしまい、学業のレベルも低くなっているに違いない。そんな学校に通わされたら、彼の将来は、お先真っ暗だ。何が何でも、今の学校に残れるようにしなければならない。彼が授業に集中できるように動機づけしなければならない。
では、息子さんの状況について、あなたがどんな前提や偏見を抱いていて、その事態「それ自体」を見ることが出来ていないのかを述べていきます。その議論を以下のように、3つのパートに分けて進めていきます。まず、最初に、問題の本質の認識における誤謬。第四節において、あなたが問題の基本的性質について正しく認識できていないことを指摘します。二点目、問題の原因の認識における誤謬。第五節において、あなたは問題の原因を正しく認識できていないことを、示します。三点目、問題の影響の認識における誤謬。第六節において、問題がどのように、あなたの息子さんとあなたに影響を与えるのかを正しく認識できていないことを、指摘します。
第四節:ケーススタディその2:あなたは、子供の事態の本質を誤解している。
前提・偏見・誤解その1−問題の本質の認識における誤謬:学校の授業に集中できないことは悪いことだ。
まず、あなたは、彼が学校の授業に集中できないこと自体を、悪いことだと信じて、何ら疑いを持ちません。しかし、あなたのこの信念は本当に正しいのでしょうか?授業に集中することが善で、集中できないことは悪でしょうか?
必ずしもそうではないですよ。とある対象に集中できていない状態というのは、注目がその対象から乖離して、別の方向へ向けて意識が拡散している状態です。いわば、「森を見て木を見ていない」状態です。この状態は、悪いことばかりではないです。なぜなら、注目が拡散していて、他の人が見るようなところとは全く別の場所に目配せしている時こそ、革命的なアイデアが湧いたり、身の毛がよだつようなインスピレーションが湧いたり、そういった創造力が発揮される瞬間なのです。
集中していない状態というのは、発明の母なのです。あなたが作曲家なのだとしましょう。新曲のイメージがバアッと湧き上がるのは、例えば、あなたが銭湯で入浴した後に、コンビニに立ち寄りかき氷を買って、「あー、うめー、冷てー」などとぼやいている、そんな瞬間のはずです。新曲をあと二日で仕上げなければいけないという義務をすっかり忘れ去ったような瞬間にこそ、インスピレーションは湧くものなのです。
インスピレーションが一度湧いたら、それがとめどなく流れてきたので、時間がたつのも忘れて、五線譜に曲を書き続けたというように、脇目もふらずに作曲の作業に没頭したこともあるかもしれません。しかし、その集中した状態は、インスピレーションが湧いた結果であります。あなたが、インスピレーションが十分に湧いていない状態で、「よし、やるぞ」と気合を入れてピアノに向かっても、思うようにはメロディーが湧かないものです。
より正確に表現するのなら、あなたの意識が自由である時に、インスピレーションは湧くのです。あなた自身の意志によりあなたの意識を統制するのではなく、意識が向きたい方向を向くのを許す、意識が触りたいものを触るのを許す、意識が味わいたいものを味あわせてあげる、そんな時に、アイデアやインスピレーションが、内側から湧いてきます。逆に、あなたが個人の意志に基づいて、あなたの意識を特定の対象に向けようとすると、意識は自然な状態を失い、創造力が消滅してしまいます。
意識を特定な対象に向けようとしてはいけないのです。何か新しいものを創造するには、あなたの意識が自由である必要があります。あなたが居間に居て、作曲をしているのなら、その居間の全て、あなたの家にある全て、あなたの家の周りに存在するもの全て(街路樹や散歩している犬)、必要ならば、あなたの意識が、それらのどれに向いてもかまわないと、あなたの意識を自由にさせてあげる必要があるのです。
これは、ある意味、あなたが五感の全てを使って、万物を感じているような状態だとも言えます。あなたの感覚が拡散して、部屋の全てを感じ、建物の外の郵便配達員の息遣いすら感じるような、感覚が研ぎ澄まされた状態、そんなときこそ、あなたの内側から、人の心の琴線に触れる音や映像や言葉が浮かんでくるのです。世界が驚くような技術革新や後世に残る芸術作品などは、そんな意識状態から生まれたものです。創造力とは、あなたがあらゆる全て、森羅万象の全てを感じるのを、あなた自身に許している時に、発揮されるのです。
意識が何か一点に集約化されてしまうと、その瞬間に創造力は殺されてしまいます。あなたが何か創造的な作業をする時は、騒音やペットや子供の妨害が無い環境を欲するはずです。なぜなら、ピアノのある居間の傍で、道路工事が始まれば、あなたの意識は、その騒音にわしづかみにされて、その騒音に意識が集約化するからです。そのとき、創造力を失います。特定の何かに意識が集まると、創作活動が出来ない、ということを、あなたはこれまでにも何度も経験してきたはずです。
さて、以上のことをご理解いただけると、学校の教室で、「集中すること」が要求されることが、実は、とても恐ろしいことであるのがお分かりいただけますでしょうか?教室で、そのときそのときの、教科に意識を集中する度に、創造力を閉鎖しているのです。一週間に五日間学校で過ごし、毎時間、創造力を閉鎖することを継続している内に、やがて、子供は、潜在意識の奥にあるインスピレーションの源(それを、私は魂と呼びます)との接触を失います。学校で時間を過ごせば過ごすほど、インスピレーションが湧きずらくなるのです。創造性がやせ細っていって、自分らしく生きるということが分からなくなり、やがて、人から出された指示に従うだけの人生を歩むようになります。
私は、意識を集約化させると、創造力を殺すことになると、警鐘を鳴らしていますが、意識を集約化させることの意義そのものを否定しているわけではありません。とある対象に、注意が集まっている状態、その意識状態は、何か一つのミッションを遂行するのに必要であります。例えば、心臓バイパス手術している外科医は、その手術の過程と患者の容態に、全神経を集中させなければいけません。そうでなければ、手術を安全に完了させることはできません。
意識を何か一点に集中する能力、これは、我々が社会生活を歩むうえで、必須な能力であります。会社の経理担当は、バランスシートの記載に意識を集中させなければならないし、新幹線の運転手は、進行方向前方の安全確認に集中しなければいけませんし、削岩機を使ってアスファルトを砕いている労働者は、その作業に集中しなければなりません。この能力が無いのなら、我々は、社会の中で正常に機能できないのです。であるが故に、学校は、子供達にそれを訓練させようとします。
しかし、学校というのは、天才的気質を殺す場でもあるのです。後世に名を残す偉人というのは、彼らの幼少期、えてして、学校の枠組みから、はみ出していたものです。例えば、かのアインシュタインが小学生だったときに、成績不良で、担任の先生から、「君は決してひとかどの人物にはなるまい」と罵倒されていたというのは有名な話です。
我々にとって、最も大事なことは、意識を拡散させてインスピレーションを高めることと、意識を集約化させて課題を完了すること、その両者のバランスを取ることなのです。二者択一で、意識を集中させることのみを、重要視してはいけません。
ですから、上記の文脈にのっとるのなら、あなたの息子さんが学校の授業に集中できていないという事態を、白か黒か、善か悪か、二者択一的、二元的に判断することはできません。それは、課題を完了させる能力を育成するという観点からは否定的なことですが、彼の創造力を育成するという観点からすると、そもそも、学校の授業になど集中するべきではないのです。
ということで、もし、あなたが、息子さんが学校に集中できていないという事態を「悪」だと考えるのなら、それは見当違いで、誤認識であります。なぜ、あなたは、何の疑問もなく、それを「悪」だと考えるのでしょうか?
なぜなら、あなたは、「学校で子供が必要としているものが与えられている」という前提をもっているのです。また、「学校で提供されているものを、しっかり履修できれば、立派な一人前の人間に成長できる」という前提ももっています。であるから、「学校でしっかり学習できない」という事態は、あなたにとっては、「立派な大人になる機会の喪失」を意味します。だから、「授業に集中できない」=「悪」だと、あなたには思えてならないのです。
あなたは、息子さんが授業に集中できないという事態、「それ自体」を見つめていないのです。あなたが見ているのは、あなたの脳内で作り上げられた「学校でしっかり勉強しなければいけない」というあなたの価値観、想念、イメージを見ているのです。
第五節:ケーススタディその3:あなたは、子供の事態の原因を誤解している。
前提・偏見・誤解その2−問題の原因の認識における誤謬:学校の授業に集中できないのは、息子の怠惰が原因である。
あなたの息子さんが、授業に集中できない原因は、彼が勉強をさぼっているがゆえに、授業の内容についていっていないことにあるか、もしくは、彼は単に、授業を面倒くさがり怠けているのが原因であると、あなたは考えているはずです。この事態の非は、彼にあるとの前提に、あなたは立っています。この前提は、真実でしょうか?
一つ、事実としてはっきりしているのは、彼が、授業を楽しめていないということです。その原因は何にあるのでしょうか?あなたは、彼が愚か者であるように感じ、であるが故に、授業にコミットしていないと考えています。彼が利口であるのなら、「授業をしっかり履修して好成績を収めることのメリット」を理解して、授業に打ち込めるはずだと。でも、逆の可能性は無いのでしょうか?彼があまりにも利発であるが故に、学校の授業が簡単すぎて、彼にはそれが幼稚でつまらなく感じられるのだと。
彼に原因は無いのかもしれません。例えば、飛び級が学校制度として認められている欧米では、授業に集中できない学生を、あえて一つか二つ上の学年にあげてみたら、その子は授業に集中し始めたというケースが、散見されます。例えば、8歳の子供は、本来であれば、小学3年生の学級に所属し、3年生の科目を履修することになるのですが、彼にとって、3年生の教科内容は簡単すぎるがために、授業が上の空になります。そして、彼の能力に見合った学年、例えば5年生に編入すると、彼は驚くほどの集中力を見せるのです。
実は、かのアインシュタインもこのケースに相当します。彼の学校での評価が悪かったのは、彼の知能に見合うだけの学校教育がされていなかったのです。彼は、小学6年のときには、既に、ユークリッド幾何学や微積分学という数学に夢中になっていたのでした。そうであれば、小学6年の算数の授業に、身が入らずに、先生から怒られてばかりであったのも理解できます。
あなたの息子さんも、アインシュタイン程の天才ではないにしても、実は、彼にとって、授業の内容が簡単であるがゆえにつまらない、という可能性は無いのでしょうか?あなたは、その可能性を精査してみたのでしょうか?
私は、あなたがその可能性を精査してみようという発想になっていないことに、注目しているのです。それすなわち、あなたは、「彼が悪い」と思い込んでいるのであり、それ以外の可能性に盲目になっているのです。
そもそも、学校の授業は面白いものではないですよね?違いますか?あなた自身が若かりし頃、学校の授業を楽しめましたか?学校で楽しめたのは、仲の良い友達と過ごす時間であって、授業内容そのものでは無いですよね?あなたは、実は、「授業に集中しているフリ」が上手だっただけではないでしょうか?先生の顔に視線を向けて、板書された情報をノートに書き写しているけれども、心はそこにあらずで、全然、授業とは違うことを想像していたりして?同じクラスに好意を寄せる異性がいれば、その人のことばかり考えていたりしませんでしたか?(すいません、それ、中学の時の私です。笑)もし、あなたの学校での経験がそんなものであったのなら、なぜ、あなたはあなたの息子さんが授業に集中するように強制できるのでしょうか?
学校の授業が面白いかどうかは、授業を受ける生徒の気持ちの持ち方にもよりますが、しかし、一義的には、先生の資質によるところが大きいのではないでしょうか?例えば、私の生涯において、「あの先生の授業は楽しかった」と、今でも、教室の熱気を思い出すことができて、若かりし日の意気を感じることが出来る、そんな授業がありました。中学生の時に通っていた学習塾で国語を担当していた吉浦教諭の授業です。
彼の授業は、私の好奇心を激しくかきたてるものでした。彼は、いつも「なぜか?」という質問をして、生徒が頭脳をフルに回転させるように仕向けていきます。例えば、「作者は、この部分だけ、突然文語体で、<○○されたし>、と記述しているが、それはなぜか?そこだけ文語体にすることにどんな効果を期待しているのか?」とか、「前作品と今作品を比べると、突然作者の論調が変化しているが、一体どんな心情的な変化があったのか?なぜ、心情的に変化したのか?」という風に生徒にせまってきます。生徒のほうも、「あーでもない、こーでもない」、と議論を重ねて、教諭の熱意に応えます。今から振り返るに、当時の中学の塾の国語の授業は、大学の哲学科のレベルでの論考を求められていました。だからこそ、私自身も、その授業に私の全身全霊を込めたものです。毎授業の後、心地よい疲労感を感じたものです。そして、3年間、吉浦教諭の授業を受けたことが、私の思考力を飛躍的に高めたのは間違いありません。
学校の先生が、熱意と誠意をもって、生徒の好奇心を喚起しようとするのなら、その態度が自然と生徒の心の琴線に触れて、生徒も授業に身が入るものです。あなたの息子さんが、学校の授業に身が入らないのは、実は、担任の先生に原因があるのではないでしょうか?先生が、実は、ことなかれ主義で、個々の授業も、指導要領にある内容をただ口にするだけの、誰でも出来る授業をしている、そんなタイプである可能性はないでしょうか?先生が提供する授業に、先生の人間性が滲み溢れるようなことが無い、物理的に先生の顔が見えるが、心情的には先生の一人の人間としての顔が見えない、そんな授業が、生徒の関心を集めることはありません。
さて、本節の議論において、私が注視したいのは、あなたの息子さんが授業に集中できないのは、彼に非があるのではなく、別の場所にある可能性があるにも関わらず、その可能性は、あなたにおいて、捨象されてしまい、あなたは、彼が怠惰なのが原因なのだと、思い込んでいる点です。
あなたは、「学校の先生は正しい」という前提を抱いています。学校の先生は、生徒個人・個人の所作を正しく観察し、正しく評価を下している、とあなたは信じています。だから、先生が「お宅の息子が、授業に集中してくれないので困っている。ご家庭でしっかり指導していただき、彼の態度を変えて欲しい」と言うのであれば、あなたはそれを何の疑問もなく、文字通り受け止めて、息子が悪いと思い、彼の態度を改めようとするのです。
しかし、この前提が必ずしも正しくないのは、指摘するまでもありません。学校の先生も人間です。時には、非理性的で愚かなこともするし、えこひいきもします。バイアスも偏見ももってます。思想的に、極端に、左(リベラル)に傾いていたりもします。ですから、あなたの息子さんが、先生の目に「怠惰な生徒」として映っているのは、先生のバイアス(偏見)である可能性も十分にあります。
すなわち、授業に集中していない生徒は、彼の他にも5、6人居るにも関わらず、彼と先生との間の個人的私怨により、彼が「悪目立ち」する結果になったということも考えられます。
例えば、次のような事件があったとしたらどうでしょうか?4月の新学期の最初のホームルームで、あなたの息子さんは、先生がカツラをしているのが分かり、おもむろに、「あー、先生、ヅラだ!」と叫び、そして教室全体が爆笑の渦に巻き込まれたとします。悲痛な恥を感じた先生は、恨みの感情を、あなたの息子さんに抱きます。
それ以来、重箱の隅をつつくように、息子さんの至らない点をあげつらい、常に彼を批判するようになります。そして、先生は、彼を常に批判的に見ている内に、先生にとっては、彼が本当にダメな生徒のように思えるようになってしまいました。客観的には、あなたの息子さんは、それほどダメな生徒で無いにも関わらず、先生にとっては、我慢ならないほどに、先生の神経を逆なでする生徒になってしまったのです。これは、彼のバイアス(偏見)です。
あなたは、「学校の先生は正しい」と考える必要は無いにも関わらず、あなたは自動的にそう信じているのです。ですから、この事態について、学校側から報告があった際に、あなたは自動的に、「息子が悪い」と思うのです。このとき、あなたは、事態「それ自体」を見つめているのではなくて、あなたの脳内で作り上げられた、「学校の先生は正しいのだから、先生が私の子を怠惰だと言うのなら、それはその通りなのだろう」という、あなたの価値観、イメージ、想念を見つめているのです。脳内のイメージを見ているのであって、状況「それ自体」を見ているのではありません。
第六節:ケーススタディその4:あなたは、子供の事態の影響を誤解している。
前提・偏見・誤解その3−問題の影響の認識における誤謬:もし、息子が特殊学校に編入せざるを得ないようなことになれば、彼の今後の人生は滅茶苦茶になる。
もし、この事態が改善されない場合、どんな災いが待っているのか?この事態が、あなたの息子さんやあなたに与え得る影響についても、実は、あなたは誤解しています。あなたは、彼が特殊学校に編入せざるを得なくなれば、そこで、程度の低い教育を受けることになり、偏差値の高い高校や大学に進学できなくなり、一流企業に就職できなくなるとして、彼の今後の人生に、壊滅的な影響がもたらされると信じています。が、それは本当でしょうか?
仮にあなたの懸念が現実化し、あなたの子供は、特殊学校に通い続け、その後、通信教育で高卒の資格を得たけれども、大学には進めず、よって、近所でステンレス板金の加工を行っている町工場で、溶接工としての職を得て、自立したとしましょう。そういった学歴とキャリアをもつ彼の今後の人生は、負け犬としての人生なのでしょうか?彼は、負け組なのですか?
日本は依然として、学歴社会でありますので、高学歴であるほうが、資本規模の大きく給与が高い企業に就職できる可能性が高まります。しかし、それ以上でもそれ以下でもありません。資本が大きく給与の払いがいい会社に就職することが、幸せを約束するものでしょうか?そうではないですよね?東大や京大を出て、一流企業に就職しても、過酷な労働条件に耐えられずに、自殺してしまうような人は、後をたちませんよね?
溶接工として過ごす人生とは、ダメな人生なのですか?そうではないですよね。気立てのいい伴侶と子供達に囲まれて、毎夕食時には、お互いが笑いあうような温かい家族の時間を持つのであれば、それは、とても幸せなことですよね。
また、そもそも特殊学校って、そんなにダメな場所なのでしょうか?
あなたは、そこが、社会的落伍者がつどう、暗い洞窟ような場所のようにイメージしているかもしれません。しかし、そこは、本当に、あなたの息子さんにとって悪い場所なのでしょうか?
ここで、私が勤務先で得た体験をここでご紹介します。平成2年(1990年)に、住友銀行(現:三井住友銀行)に入行した私は、配属店の支店長とことごとく対立しました。雑務ばかりやらされることや、過剰に残業が要求されることなどを、血気さかんな私は、支店長に直接文句をたれました。当時の支店長は、常務に昇進したばかりで、行内で権力もあり、野心にあふれています。彼は、自分の周りを、忠実な部下ばかりで固めようとしましたので、入行2年目に、私は、本店内の海外業務の事務部門に、言わば、左遷させられたのです。なにせ、人事部長よりも行内ランクが高い支店長にたてついたのですから、左遷も当然です。
さて、銀行内で閑職に回されたことが、私の人生を壊滅させたのでしょうか?否。私は、そこで二つの得難い体験を得ました。まず、一つ目、私は、そこで特殊なスキルを得ることができたのです。そこの海外業務の事務部門は、行内では重要な部署ではなく、また行内の権力はありません。しかし、海外の金融機関と資金のやりとりをする部門でしたので、自然と、外国為替取引法に関する知識を深めていきました。
左遷されて2年後、銀行が証券子会社を設立する際に、私は、そこの外国債券取引の適法性を審査する法務部門長に抜擢されました。肩書は、部長代理(一般会社の主任に相当)でしたが、その部門の部門長でしたので、業務打ち合わせでは、銀行の役員達と直接議論を交わすような存在になりました。つまり、私は、左遷されたことをきかっけとして、出世したのです。出世できたのを確認して、私は退職しましたが(負け犬のまま銀行を去るようなことをしたくないという意地がありましたので)。
そして、二つめ、その本店の閑職では、おどろくことに、男性総合職員の大半が鬱を患っていたのです。周りの職員のほとんどが、抗うつ剤を服用していました。私は、それまでの人生で、直接、精神的な病にかかった人と触れ合ったことがありませんでした。彼らは、鬱を患っていることを恥に感じ、今にも気持ちが潰されそうな日々を歩んでいました。そういった同僚達と、どう心を通わせたらいいのか、私は細心の注意を払い、彼らとの関係の円滑化を図ります。このとき、カウンセラーとしての私の資質が、花開いたと言えます。当時の体験無しに、カウンセラーとしての現在の私は存在しません。
私が、銀行に勤務していた時、閑職に左遷されたのは事実です。しかし、その場で得た体験をもとに、私の人生は、より味わい深い、幸せなものに変容していきました。ここで、強調したいのは、自身が身を置く場所が、客観的に「ひどい場所」であったとしても、そこで肯定的な体験を得るのは十分に可能だと言うことです。
あなたの息子さんもしかりです。仮に、特殊学校が、あなたの想像するように「ひどい場所」であったのだとしても、彼が特殊学校に編入することになったとしても、彼が、彼のその後の人生に役立つことを得るのは、十分に可能です。ですから、それは、必ずしも悲観するべきことではないのです。
また、別の観点からも、特殊学校はそれほど悪い場所だとは考えられません。仮に、あなたの息子さんが、あなた自身や担任の先生が懸念するような、発達障害(ADHD)を患っているのであれば、発達障害を専門とした心理カウンセラーが常駐している特殊学校に通ったほうが、彼は、それをどのように乗り越えて、社会生活に必要な機能性を得ていけばいいのかを、より的確に学べることになることでしょう。ADHDに造詣が深く、ADHDの子供のケアをする経験も豊かである、特殊学校で過ごしたほうが、あなたの息子さんは、将来自立する力を養えるかもしれません。
そもそも、子供が受ける教育の質は、何が決めると思いますか?学校?地域?PTA?予算?一番大きな要因は、担当している先生の個人的資質であるのは間違いないでしょう。上記の、私が学習塾の国語の授業から受けた、私の貴重な学びは、その塾が素晴らしかったというよりは、吉浦教諭の個人的資質に負うところが大きいです。
特殊学校に通ったほうが、もしかしたら、息子さんと相性にいい先生に巡り合えるかもしれません。今、通っている普通学校の担任の先生が、彼に「三行半」を突き付けたあたり、彼と担任の先生は相性が悪いと言えます。むしろ、今の学校に残り、今の担任の先生と過ごすほうが、彼の成長にとっては、悪影響があるかもしれません。先生個人の資質ということであれば、特殊学校で出会える先生の質は未知数でありますので、今の担任の先生よりもひどい先生に遭遇する可能性ももちろんあります。しかし、私が強調したいのは、教育の質は、先生の個人的資質で決まると言えますので、特殊学校がひどい場所だと考える必要は、必ずしも無いということです。
以上、指摘してきた通り、あなたの息子さんが、特殊学校に通わざるを得なくなった際に、程度の低い教育をそこで受ける結果、一流大学に通えず、そのため、一流企業に就職できなくなるために、彼の今後の人生がひどく損なわれてしまう、とあなたが考えるのなら、それは、あなたの思い込みでしかすぎず、誤認識であります。
では、彼の将来について、誤認識ではない、正しい認識とはどんなものになるか、想像がつきますか?彼の将来は、まだ起きていない未来での出来事です。ですから、彼の将来について、最も妥当で適切な現時点での了解・認識は、「何が起きるかは分からない」というものです。特殊学校に通うことになった場合、そこでの教育が彼にどう影響するのか?それがポジティブなものになるのか?ネガティブなものになるのか?今の時点では、分からないですよね?ネガティブな影響を受けるとして、彼がそれを乗り越えることができるのか、その影響に潰されてしまうのか?今の時点では分からないですよね?
もしかしたら、彼の授業中の態度は、近い内に改善されて、今の学校に残れるようになるかもしれません。もしかしたら、改善されずに、特殊学校に行かざるを得なくなるかもしれません。仮に、特殊学校に行くことになっても、そこで、彼は、素晴らしい先生とカウンセラーに出会い、とても健康的な成長を遂げて、彼の特質に適した理想的な職を得ることもでき、幸せな人生を歩むかもしれません。また、逆に、あなたが懸念するように、特殊学校での教育が彼の成長を阻害し、その結果、望む学歴も職も得られず、うら寂れ、しまいには、酒におぼれるような日々をおくることになるかもしれません。
彼が学校の授業に集中できなくなり、学校側から警告が書状で寄せられた、というこの事態について、それが彼とあなたの将来にどんな影響を与え得るのか、あなたが、そのことでどれだけ頭をつかっても、想起されるアイデアは、全て可能性の議論であり、想像上の産物でしかありません。ですから、今後、本当にどんな状況が彼を待っているのかは、その時になってみないと分からないのです。
この事態(彼が授業に集中しないために、学校から改善が要求されている)が、今後どんな影響を、彼とあなたに与ええるのか、はっきりしたことは分からないのです。それが、真実です。
しかし、ここで、私が問題視したいのは、あなたが、息子さんが特殊学校に通わざるを得なくなることが、まるで既成事実で、今すぐに発生する事態であるかのように、あなたには感じられてしまう点です。彼が特殊学校に通うのは不可避であり、そこでひどい教育を受けて、彼の人生が破壊されてしまうのが、あたかも、今、この瞬間に発生しているかのように、あなたは感じられてしまうのです。あたかも、今、彼はうらさびれてしまって、あなたの目の前で、彼が泣き崩れているかのように、感じてしまうのです。
私が、今ここで指摘している点をご理解いただけますか?それをご理解いただくのに、他のケースで喩えます。あなたと離れて暮らしている実家のお父様が、胃癌を患ったというニュースを突然聞いたら、あなたはどういう反応をします?おそらく、あなたは、ひどくうろたえ、強い悲しみを感じ、どうしていいか分からなくなります。その時、あなたは無意識の内に、あたかも彼が、もう既に臨終の床に居るかのように感じるはずです。私は、この感情的過剰反応を指摘しているのです。あなたは、お父様の胃癌について予期される最悪の事態、すなわち、彼の死、それが、今、この場で実際に起きているかのように、感じてしまうのです。
彼の癌が治るかどうかは、未来のことですから、今は「分からない」というのが真実です。仮に彼の癌が初期で手術によって摘出できるという診断があり、完治できる可能性が高くても、それに100%の保証はありません。逆に、彼が末期癌と診断されたのだとしても、同じレベルの癌でもまれに奇跡的に助かる患者もいますから、彼が助かる可能性もあります。だから、彼の癌のレベルがどんなものであれ、治るかどうかは「分からない」というのが真実です。しかし、彼が数日内で命を落としてしまうのが決定しているかのように、あなたには感じられてしまうのです。
それと同様に、あなたの息子さんが、特殊学校に通うことになるのかどうか、そこで望ましくない教育を受けるのかどうか、その後、幸せな人生を歩むのかどうか、それは、現時点では未知数で、不確実で、「分からない」ことなのです。しかし、あなたは、不確実である将来の可能性について、特殊学校に通って、彼の人生がダメになるのは、確実であるという風に、見つめるのです。不確実なものを、不確実なまま受け入れることが出来ないのです。不確実なものを、不確実だと納得するのではなく、陰惨な将来が不可避で100%確実に発生するものと、無意識の内に信じ込むのです。
繰り返しますが、彼が悲惨な人生を歩む、その陰惨なイメージは、実は、あなたの脳内で描かれた単なる絵であり、事実ではありません。あなたは、彼の未来は、「分からない」という真実を見つめるのではなく、その脳内の絵を見つめているのです。彼の未来とは、それはちょうど真っ白なキャンバスのようなもので、どんな絵が描かれることになるのか、それは、今は分かりません。それは、今の時点では真っ白なのです。あなたはその真っ白なキャンバス「それ自体」を見つめているのではなく、そのキャンバスに将来現れるかもしれない、陰惨で真っ黒な絵の想像を、見つめているのです。
彼が悲惨な人生を歩むという陰惨なイメージ、それは幻想であります。喩えれば、それは、絵で描かれた狂暴な熊です。それを、あなたは、今、この場で、実際に、あなたと息子さんを襲っている脅威として感じているのです、あたかも、熊が絵から飛び出し、実体化して、あなたの家に潜入しようとしているかのように。ですから、あなたは、それを何としてでも回避しなければならない、という強迫観念に駆られます。
第七節:ケーススタディその5:子を想う気持ちに潜む影:子供が幸せでないのなら、私(=あなた)は幸せになれない
前節で指摘した通り、本ケースにおいて、あなたは、あなたの息子さんにとって最悪の事態が、今、この瞬間にも起きているように感じ、危機がはっきりと眼前に迫っているように感じます。そこで、何がなんでも、その最悪の事態を解消しなければいけない、そんな強迫観念に駆られています。あなたは、なぜ、そんな衝動に揺り動かされているのでしょうか?
最悪の事態を解消したいという衝動は、あなたの息子さんの幸せを念じることの裏返しです。彼の幸せを願う気持ちが強ければ強いほど、最悪の事態を回避しなければいけないという衝動が強くなります。ここで、注目したいのは、その事態を解消したいというあなたの意志があまりに強いことです。まるで、あなたが江戸時代の火消しであるかのように、家事現場のど真ん中に身を投じて、燃え盛る建物を壊し延焼を防ぐかのように、その息子さんの置かれている事態のど真ん中に、あなたの身を投じて、特殊学校に転入されてしまうことを防いでいるかのようです。そこにコミットしようとする力があまりにも強いのです。
それを、単に、母親の子供への愛情という言葉で片づけるには、とても不自然なのです。なぜ、不自然なのかというと、そこに楽観する気持ちが無いのです。「たとえ、息子が特殊学校に行くことになっても、彼は大丈夫」というように、彼の将来を楽観する気持ちが無いのです。楽観して、温かい眼差しで、事態を静観するというような、心のゆとりが無いのです。そのゆとりの無さを、私は不自然だと、指摘しているのです。そこにあるのは、特殊学校に行って、彼の人生が滅茶苦茶になるのなら、あなた自身も含めて、何もかもが壊滅するかのような、戦慄があるのです。
すなわち、そこにあるのは、「息子の人生が滅茶苦茶になるのなら、私(=あなた)の人生も滅茶苦茶になる」というあなたの恐怖なのです。あなたは、それを怯えるがゆえに、彼が特殊学校に転入される事態は、何が何でも回避されなければならないという衝動に突き動かされます。本節は、息子さんの幸せを願う気持ちに忍び寄る、不健全な衝動を解説します。
まず、あなたが、息子さんの幸せを強く願っているのは間違いがありません。あなたは、彼が将来こうあって欲しいというイメージを、かなり強固にもっています。それは、彼が、具体的にどんな職について欲しいのか具体的な案がある、ということは意味していません。強固なイメージとは、「将来、彼は幸せな人生を歩まなければいけない」、という強い「念」であります。
その「念」は、あなたの価値観に応じて、様々な色付けがされます。例えば、あなたが「家族の繋がり」に、何にも増して価値を置いているのであれば、あなたの息子さんが、気持ちの優しい献身的な伴侶にめぐりあって、複数の子供に恵まれて、離婚などすることもなく、お互いを尊敬し合い助け合う、そんな幸せな家庭を、彼が築けることを強く願います。彼がどんな伴侶をめとるのか、どこでどんな仕事をしている女性なのか、そこに具体的なイメージは無いにしても、良き伴侶と巡り合い、温かい家族を築くことを、あなたはあなた自身が自覚しているよりもずっと強く願っているのです。
子の幸せを願うのは、親として当然です。しかし、その願いに、不健全性が忍び寄ります。子の幸せを願う強い気持ちの裏側に、「私の子が幸せになれないのなら、私は幸せになれない」という恐怖感が潜んでいるのです。実は、あなたの幸せが、かなりの度合で、子供の幸せに依存しているのです。
子供が笑顔を見せるとき、そこにあなたが無上の喜びを感じるのは、当然であり、自然なことであり、何ら問題ありません。だから、あなたは子供の笑顔を見たいと思い、子供を嬉しくする努力を払う。それは、当然です。しかし、「私の子供が幸せでないのなら、私は幸せになれない」と感じるのなら、すなわち、あなたの子供の幸せが、あなたが幸福を感じるための必要条件になってしまうのなら、それはとても不健全なことなのです。
それがいかに不健全なのか、お分かりいただけますか?あなたが、「私の子供が幸せでないのなら、私は幸せになれない」と強く感じれば感じるほど、子供に罪の意識を植え付け、子供は不幸せになっていくのです。
想像してみてください。仮に、あなたの夫婦関係が冷め切ってしまって、あなたは夫と別居状態にあるとします。それを心配したあなたの母親が、毎日のようにあなたに電話をかけてきて、「もう、別居なんて、とんでもない。離婚になるのかどうか、孫(=あなたの子供)はどうなるのか、心配で心配で、夜も眠れないよ」と、あなたに訴えかけてきたら、あなたは何を感じるでしょうか?
あなたの母親は、暗に、あなたにこう言っているのです「あなたが別居しているせいで、私は苦痛に満ちている」と。当然、あなたは、「私のせいで、私の母親が苦しい思いをしている」と罪の意識を感じます。ただでさえ、別居中で、未解決の家族問題(例:離婚後の子供の親権)にさらされて、強いストレスを感じているところに、そのように実の母親から責められては、あなたは立つ瀬もありません。
あなたは、あなたの母親に対して、こう思うはずです。「もう、私と夫の関係については、放っておいて欲しい。私ら夫婦がどんな状態になるのであれ、母さんには、通常の毎日を送ってもらって、日々の幸せを噛みしめて欲しい」と。そうですよね?子供として、あなたは、あなたの親に、「私のことは放っておいて」と願うはずです。だって、あなたは独立して、あなたの母親とは違う人生を歩んでいるのですから。
これで、私が指摘しようとしいる点をご理解いただけたと思います。あなたの母親が、「私の子供(=あなた)が幸せでないのなら、私(=あなたの母親)は幸せになれない」という態度を、あなたにとったのあれば、それがいかにあなたを苦しめることになるのか、一目瞭然のはずです。親の幸せが、子の幸せに依存している状態、それは実はとても不健全なのです。
しかし、親として、あなたは、あなたの子供にどんな態度をとっているでしょうか?「あなたが○○の問題を抱え続けるのなら、私は心配で夜も眠れない」という気持ちを子供になげかけていないでしょうか?ここで、○○に入るのは、例えば、離婚、失業、伴侶の浮気、学校でのいじめ、難病、などです。かなりきつい言葉で表現するのなら、親として、あなたは、あなた自身が幸せを感じることができるように、あなたの子供が「幸せな人生」を歩むことを強制しているのです。あなたは、実は、あなたの親にやられて嫌だったことを、あなたの子供に行っているのです。
ここで、再び、あなたの子供が学校で集中できていないために、放校処分になるかもしれないケースをとりあげましょう。彼が特殊学校に通わざるを得なくなり、彼の今後の人生が滅茶苦茶になる可能性が、あなたにとって耐えがたいのは、あなたの息子が幸せな人生を歩むことが、あなた自身が幸せを感じるために、是が非でも必要なことだからです。
あなたの貢献があったおかげで、彼が幸せな人生を歩み、彼が「母さん、ありがとう」とあなたに感謝してくれる。あなたが彼を立派に育てあげるの見てきた、あなたの夫やあなたの親が、「お前(=あなた)は、素晴らしい母親だね」と認めてくれる。あなたの近所の人達も、彼の成長をみて、「お宅(=あなたの家庭)は、幸せよね」と、あなたの家庭が幸せであることを認めてくれる。そんな状態を、あなたは切に願っているのです。
それ無かりしば、あなたは、あなた自身が無価値な人間に思えてしまいます。自分に価値が無いと感じる時、それは、あなた自身が消えて無くなってしまうように感じる時であります。消滅してしまう、死んでしまうかのように感じます。それは、強く深い恐怖を喚起します。
実は、あなたは、あなた自身が、「素晴らしい母親として存在できている」というアイデンティティーにすがりつきたいのです。素晴らしい母親として存在できている証拠として、あなたの息子が幸せな人生を歩むことを望んでいます。あなたにとっては、あなたの息子が不幸せな人生を歩むのなら、彼をうまく導けなかったのだから、あなたはひどい母親なのであり、それすなわち、あなたという人間は無価値であることを意味するように感じられてしまうのです。
既述したとおり、自分に価値が無いと思えるときは、自身の存在が消滅するかのように感じてしまいますから、あなたの息子が放校処分になり特殊学校に行くことになるかどうかという事態を、あなたは無意識のうちに、あなた自身の存続問題(あなた自身のサバイバル)として感じてしまうのです。息子さんの事態が、最悪の結果へと向かうのなら、あなた自身が、あたかも死んでしまうかのように、あなたには感じられるのです。ですから、あなたの息子さんが特殊学校に行くかもしれないという可能性に対して、今、この瞬間に迫りくる脅威として、過剰に反応しているのです。
あなたは、息子さんの状況「それ自体」を見つめているのではなく、あなたは、あなたの脳内での悲鳴、すなわち、あなたの恐怖を見つめているのです。「私は、母親として失格だ」という恐怖を見つめているのです。
あなたが、なぜ、「素晴らしい母親として存在できている」というアイデンティティーにすがりつきたいのか、というと、そもそも、あなたの内面で、自尊心が健全に育成されていないからです。あなたは、自分に自信がなく、他者に迷惑ばかりかけていて、あなたのせいで、周りの人達が不幸になっている、あなたはそんな存在なのだという、ネガティブなイメージを自身に対して抱いています。あなたは、そもそも、あなた自身に価値が無いと怯え切っているのです。
その反動として、あなたは、あなたの存在の価値を欲します。あなたという存在は、他に人にとってありがたい存在であって欲しいのです。あなたという存在は、他の人に役に立つものであって欲しいのです。あなたの人生は、無意味なのではなく、それがしかの意味があって欲しいのです。あなたは、あなた自身の価値を欲している。であるがゆえに、あなたは、素晴らしい母親として存在したいのです。そして、あなたは、「素晴らしい母親として存在できている」というアイデンティティーにすがりつこうとします。この点に関しては、次章でもう少し詳しく解説します。
第八節:ケーススタディその6:困難な状況「それ自体」を見つめるとはどういうことなのか?
さて、本章、ここまでの議論は、読者であるあなたに一つの誤解を与えたかもしれません。あなたは、こう言うかもしれません。「加藤さん、あなたは、何か困難にぶち当たったら、その状況を大きな視野でみつめ、色々な角度からそれを眺めなさいと、我々に勧めているのですね?」と。これは、誤解です。
本章において、あなたのお子さんが学校で集中できずに、特殊学校に編入されるかもしれない事態をとりあげ、その事態を様々な角度から見つめて、色々な可能性を検証したのは、あなたが、その事態を、いかに、バイアスがかかった見方でみているのかを、理解してもらうためです。あなたは、あなたの固定観念を通じて、その事態を見つめています。そして、あなたは、その事態「それ自体」を見つめておらず、あなたの固定観念があなたの脳内に描いてきた恣意的なイメージだけを、見つめているのです。そのことを、ご理解いただくために、かなり紙面をさいて、議論を重ねてきたのです。
では、困苦に遭遇したときに、スピリチュアルなアプローチで対応するというのは、一体どういうことなのでしょうか?それは、その困難な状況を、色々な角度や視点から見つめるということなのではなく、その状況を眺める時に、全ての前提、全ての思い込み、あなたが予期する全てのことを捨て去り、「それ自体」を見つめるということです。仏教や禅が言うところの、「あるがままを見る」ということです。
あなたが陥っている困難な状況の「それ自体」を見つめることが出来れば、そもそも、それは「困苦」なのではなく、リアリティの一つの様相であることが分かります。
例えば、冬の気候というのは、寒暖の一つの様相ですよね。気候が温かいのか寒いのか、それは、状態のヴァリエーションでしか過ぎず、それは、善か悪かという問題ではありません。しかし、あなたの知り合いが冬山で遭難して、残念ながら命を落としてしまったとしたらどうでしょう。その観点から見ると、冬という季節は、人の命を奪い得る、残酷な時期として理解できます。本章で既に議論した通り、その残酷なイメージは、あなたの脳内で築き上げられたものであって、あなたは、そのイメージを見つめているのです。冬という季節、「それ自体」を見つめるのであれば、それは「残酷」でも、「厳しい」ものでもなく、一年の内で、最も気温が低い時期である、それ以上でもそれ以下でもないのです。
あなたが、あなたの苦しみ「それ自体」を見つめることが出来ると、それを「悪」だとか「誤」として認識していたのは、幻想であることが分かり、あなたが安心できるようになるだけでなく、その状況を克服するための方策が自然と開示されていきます。このことを、以下、再び、あなたのお子さんが学校で集中できずに、特殊学校に編入させられるかもしれない事態を取り上げて、説明します。その状況について、前提や偏見の全てを捨てて、「それ自体」を眺めるのなら、あなたは何を知覚するのでしょうか?
「それ自体」を眺めるということは、換言すれば、対象を理性的思考を通じて解析するということではなく、対象を丸ごと味わうということです。喩えば、イタリアンレストランで、ラザニアを頼んで、それがテーブルに運ばれたのあれば、「ここのシェフは素材にこだわっていて、ミシュランガイドでも3つ星を獲得している」などと、ウンチクを垂れ流すのではなく、実際にその料理を、口に運ぶだけなく、触感や香りや見た目も楽しみなさい。あなたの五感を総動員して、全身で楽しめと、言っているのです。それが、「それ自体」を体験するということです。
ですから、あなたのお子さんが学校で集中できないケースについても、それを理性的に理解しようとするのではなく、あなたの全身の全てをつかって、あなたの髪の毛一本一本ですらも動因して、あなたの五感も、第六感すらも動因して、あなたの息子さん自身と、彼が置かれた状況を感じようとしてみてください。すると、あなたは何に気づくでしょうか?
あなたが、そのように、彼に接するのなら、彼が、そわそわと落ち着いていないのを、あなたは味わうはずです。その感覚は、あなたがかつて味わった、次のようなものに似ていることが分かります。あなたが遠出するのに、駅で特急電車に乗り換えるのに、時間があまりないために、駆け込みでその特急電車に乗車したら、「XX行き、特急電車にご乗車いただきありがとうございます。」と、あなたの行先とは真逆に向かっていることを告げるアナウンスを聞きます。その瞬間、「え?え?わたし、電車を間違えたの?」とうろたえます。自分が居るべき場所に居ない時に感じる「うろたえ」、そんな波動に、あなたの息子さんが同調しているのを、あなたは感じます。
そして、あなたは、この事態の核心を知るのです。あなたの息子さんが、授業に集中できないのは、彼が、安心して、自分の好奇心を追求できる環境にいないがゆえに、どうしていいか分からず、不安を感じ、軽度のパニックに陥っているのです。彼は、居るべき場所に居ないような感覚を味わっているのです。彼が、今、もし赤ん坊なのであれば、彼はただ「ぎゃー」と泣き叫び、助けを呼びます。小学3年生の彼は、自身の不安をコントロールできるだけの成熟を遂げていません。その不安をどうしていいか分かりません。どう助けを呼んでいいかも分かりません。ですから、とりあえず、彼は、授業中に奇声をあげたりして、とりあえず、周囲の注目を引こうとするのです。
彼は、不安の中にあるので、授業に集中できないのです。それは、当然ですよね?あなたが、特急電車に間違えて乗った可能性を知った瞬間に、あなたは携帯で取引先との商談に集中し、その取引を滞りなく締結することができますか?難しいですよね?彼は、居るべき場所から引き離されて、教室に迷い込んでいるように感じていますので、何かに集中することができないのです。この見地・理解こそが、その事態「それ自体」を知覚した時に得るものです。それ以外の理解、例えば、彼が怠け者だから授業に集中できないという判断は、あなたが脳内で恣意的に作り上げたイメージであり、それは真実ではありません。
それが、分かれば、あなたは、彼に近づき、彼をもっと真摯に見つめ、耳を傾け、彼のことを知ろうとするはずです。彼が何を不安に感じているのか、それを、あなたは分かってあげたい。それが分かり、その不安を取り除けるものなら、そうしてあげたい、とあなたは思いますよね。あなたがそんな慈悲に満ちた気持ちで、彼に近づこうとすれば、彼は、あなたが彼の味方として彼に接近してくれているのを、分かります。あなたの存在を、頼もしく感じることが出来て、彼の不安が軽減していきます。
あなたの不安を察知して、あなたの傍に居てくれる人があれば、あなたは安心することが出来るのです。上記の例で、特急電車を間違えて乗ったときに、あなたの傍に、あなたの夫が居てくれて「ありゃりゃ、電車間違えて乗っちゃったね。次の駅は30分後に停車するけど、しょうがない。次の駅で乗り換えよう。君の実家(目的地)には、予定より1時間ぐらい遅れて着くことを、君からお義母さんに、電話してくれないか?」と言ってくれるのであれば、あなたの不安がすうっと消えてなくなるのが分かるはずです。
電車を間違えて不安を感じているあなたに、あなたの夫が上記のように接してくれるのであれば、あなたの不安は軽減します。学校の教室で「僕は居るべき場所にいない」と不安を感じるあなたの息子さんにも、電車の例の夫のような態度で、あなたが接してあげるのであれば、息子さんの不安が軽減していくのです。
あなたが陥っている困苦において、誰が実際に苦しんでいるのであれ、それがあなた自身であろうが、あなたの家族であろうが、あなたは、その人「それ自体」、その事態「それ自体」を、あなたの全身を使って感じようとして欲しいのです。そのようなやり方で、あなたが対象に接近するのなら、あなたは慈しみをもって、その対象を共感することになるのです。その時、関係各位の不安や心配が薄れていくのです。「それ自体」に接近し、「それ自体」を深く味わい、「それ自体」に共感するのです。そうすれば、苦しみは自然と和らいでいきます。これが、スピリチュアルなアプローチによる、困苦の克服です。
彼は不安を感じているがゆえに、授業に集中できていないのです。ですから、彼が必要としているのは、あなたの深い理解と共感です。そうであるにも関わらず、彼が集中できないのは、彼が怠け者だからと断じて、彼を叱りつけることで、彼の態度を変えようとするのなら、事態は悪化します。
彼は、既に学校で先生に「怠け者」のラベルを貼られて傷ついています。せめて、家では母親に助けてもらいたいのです。せめて、母親からは、「お前(=彼)は怠け者なんかじゃない。お前はいい子だ」という言葉をかけて欲しいのです。しかし、そこで、母親であるあなたが、担任の先生と同じ見地に立ち、彼を批判して、彼を正そうとしたら、彼はどう感じるでしょう?「先生が僕(=あなたの息子)を否定しているだけでなく、母さんも僕を否定している」と感じます。母親であるあなたが先生とタッグを組んで、彼の敵として、彼を攻撃しようとしている、と彼は感じます。当然、孤独感が増幅され、不安感が強くなり、授業からもっと気持ちが離れていきます。
そうではなく、彼「それ自体」を見つめて、彼を丸ごと分かってあげる。彼を全て抱擁してあげる。そうすることで、自然と彼の心が安らぐのを待つ。それが、スピリチュアルなアプローチで彼を助けてあげることです。
第九節:結局のところ、「認識」が問題なのだ。
では、ここで本章の議論をまとめておきます。
あなたが困難な状況に陥り、苦しみを感じているのであれば、それは、あなたがその状況を正しく認識できていないからです。あなたは、その状況「それ自体」を見つめているのではなく、あなたの脳内の「前提」や「イメージ」や「決めつけ」を見つめているのです。そのため、その状況の本質を見誤り、その状況の原因を見誤り、その状況からの影響を見誤ります。そして、あなたは苦しむのです。
例えば、あなたの娘さんが、あなたに「私(=娘さん)、離婚することにした」と突然に報告すれば、あなたは強い不安を感じます。これは、娘さんが離婚すること、それそのものが問題なのではなく、それをあなたがどう理解するかが問題なのです。
まず、あなたは、あなたの脳内の「離婚は悪である」という前提を見つめていて、あなたの娘さんの状況「それ自体」を見つめていません。ですから、あなたは、何かとてつもなく悪いことが、彼女の身に起きているかのように感じ、不安に思います。
また、あなたは、あなたの脳内の「娘も彼(=娘の夫)も我慢が足りないから、離婚になるのだ」という前提を見つめているのであり、娘さんと彼が、どのような過程や感慨を経て離婚という結論に至ったかのか、その過程「それ自体」を見つめていません。ですから、あなたは、彼女も彼も浅はかであるがゆえに、思料が足りないがゆえに、離婚にいたるように感じて、怒りが湧きます。小さな子供が、思料浅く、浅はかに、おもちゃを取り扱い、それを壊してしまったのを、「何やってるのよ、バカ!」としかりつけるように、あなたは、彼女と彼に怒りを感じます。
そして、あなたは、あなたの脳内の「女は家族に尽くし、幸せな家庭の中で幸せになれる」という前提を見つめているのであり、娘さんの今後の可能性「それ自体」を見つめていません。ですから、離婚後、彼女が路頭に迷い、不幸せになるのは間違いないように、あなたには感じられ、あなたは悲観に暮れるのです。娘さんの可能性「それ自体」を見つめるのであれば、大きな可能性が彼女を待っていることが分かります。
それらのあなたの思い込みが真実ではないことは指摘するまでもありません。離婚は悪ではありませんし、離婚の原因は、実は彼の娘さんへの暴力にあり、離婚後、彼女はかえって幸せな人生を歩むことになるかもしれません。しかし、あなたは、彼女の状況について、かなり偏った見方をしているのであり、それによってあなた自身が苦しむのです。
あなたが、彼女の状況「それ自体」を味わうのあれば、あなたは、彼女の激しい痛みのみを感じます。あなたの娘さんの痛み、それ以外は、あなたの思い込みでしかすぎません。彼女の痛みを感じ、あなたは、こう言葉をかけてあげます「一緒に乗り気っていこう」と。あなたの慈しみから、そのように温かい言葉を彼女にかけてあげるのなら、それが彼女が立ち直るきっかけになります。あなたの心温まるサポートを受けて、彼女が勇気や力や笑いを、徐々に取り戻していけば、あなたの不安も霧散していきます。
このように、困難な状況「それ自体」を深く味わい、それを丸ごと味わおうとすると、その包容力がその困難な状況を抱擁(受容)するだけでなく、あなた自身をも抱擁(受容)することなり、あなたの気持ちがラクになっていくのです。このように、問題そのものを解決する(例:娘さんの離婚をキャンセルして、婚姻を継続する)のではなく、問題を超越して問題を受け入れることで克服する、このやり方がスピリチュアルなアプローチなのです。
次章に進む前に、一つだけ注釈しておきます。私が、あなたが苦しむのは、事態を誤認識しているからだと指摘するとき、私は、あなたがバカだから事態を正しく認識できないのだと、あなたを蔑む意図は一切ありません。自我を通じ、二元意識(通常の意識状態)を通じて、リアリティを見つめる限り、人は、脳内のイメージを見るのであり、対象「それ自体」を見つめることができません。対象「それ自体」を認識できる人は、対象を見つめるとき、思考を通さずに、全身を使って感じることが出来る人です。そして、「それ自体」を認識する訓練は、学校教育では提供されておらず、精神覚醒を遂げる意思をもった人が、適切な霊的指導者から適切な訓練を受けて、それが出来るようになるのです。(筆者注:もちろん、その訓練を受けなくても、たまたま、ある程度「それ自体」を認識することはあります。しかし、いつでも好きな時に、本格的に、「それ自体」を体験できるようになるには、訓練が必要です。)
むしろ、学校では、真逆の訓練が提供されます。学校では、対象「それ自体」から意識を切り離し、脳内の「考え」に注目するよう、訓練を積むのです。ですから、学校での成績が良かった人ほど、対象「それ自体」を認識することが不得手であります。
自転車に乗るトレニーングを受けたことが無い人が、自転車に乗れないのだとしても、それは至極当然なのであり、それは批判の対象にはなり得ません。それと同じように、意識を自我から切り離し、思考を介さずに、事象「それ自体」を見つめる訓練を受けたことが無い人が、それが出来ないのは当然なのです。
あなたが、日々の生活に苦しむのは、仏陀が指摘している通り、あなたがその状況「それ自体」を見つめていないからなのです。そして、あなたがそれが出来ないのは、単に適切な訓練を受けていないだけの話なのです。その訓練を受けなくても、日々の生活を送ることは十分に可能です。しかし、その訓練を積むのなら、あなたは苦しみから解放されるのです。
私は、私の人生において、その訓練を本格的に始める決心を、2004年ごろにしました。それで、現在に至り、自分の今の幸せは、これまでの訓練のおかげだと自負しています。あなたは、どうされたいですか?
第三章へ
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