エッセイ52 (2017年11月9日著)
スピリチュアルな洞察が、どのようにあなたの生活の役に立つのか?
認識を一新することの考察:「それ自体」を知ることで、
苦しみから解放されるのは、何故なのか?
著者:加藤優
最終章:あなたの価値は不変である
第一節:テスト:無職である人、失業中である人はダメな人か?
本章にて、本エッセー全体の議論を取りまとめるにあたり、今、あなたがどれだけ、意識が明晰になったのか、テストさせていただきます。
あなたに尋ねます。職を見つけようしているけれども、見つけられない人は、ダメな人ですか?また、最初から職を見つけようとすらせずにいる人は、ダメな人ですか?
例えば、あなたの知り合いの家の長男が、大学卒業後、大手企業に就職したものの、三か月後に退職して、失業後一年たった今でも再就職先が見つからずにいるのだとしたら、あなたは彼に対してどんな印象を持ちますか?是非、臨場感をもって想像してみて下さい。再就職が決まらない彼が、あなたの身近な存在だったら、あなたは彼をどう思いますか?
あなたは、おそらく、彼に否定的な印象を持ちますよね?違いますか?
あなたが、職を見つけられない人や職を探そうともしない人について、怠惰であるとか、能力が低いとか、社会人としての責任感が無いとか、否定的な印象を感じるのであれば、それは誤認識です。あなたは、無職の状態もしくは失業の状態の「それ自体」を見つめていません。失業中にある人の存在「それ自体」を見つめていません。あなたの脳内に浮かぶ、恣意的に創作された、無職もしくは失業についての、または失業中にある人の「イメージ」、「偏見」、「前提」、「決めつけ」を見つめているのです。
上の例であげた、あなたの知り合いの家の、なかなか再就職が決まらない彼を、あなたが批判的に評価した時、あなたは、彼という存在「それ自体(彼自身)」を、見つめているのではなく、あなたの脳内で創生された、彼についての「イメージ」を見つめているのです。
あなたが、あなたの脳内の、彼についての「イメージ」だけを見つめることが、なぜ問題なのでしょうか?それが問題なのは、就職が決まらない人について、あなたが過去に見分して得た情報を参照して、その「イメージ」があなたの脳内で作り上げられているからです。その「イメージ」が、彼のケースにおいて適用可能かどうかは、本当は分からないのです。しかし、あなたは、無意識の内に、その「イメージ」を適用するのです。それが問題なのです。
例えば、過去に、あなたは、ニート、もしくは引きこもりに関する報道を見て、それがしか衝撃を受けたとしましょう。日本では、30歳以上で、就職も就学もせずに、実家にこもり、親から小遣いをもらうことで過ごしている人が、すくなくとも80万人以上いると言われています。それが、あなたの印象に強く残っているのは、まず、それがあなたの価値観に著しく反する(子供は成人したら親の面倒を見なければいけないという価値観に反する)ことと、あなたの子供達がニートにでもなったら嫌だなと感じたからです。
そして、あなたは、無意識の内に、社会現象として引きこもっている人達と、あなたの知り合いの家のなかなか再就職が決まらない彼を、比べるのです。そして、両者の間の共通項(例:両者は親から金銭的支援をうけている)をみつけて、あなたは、「彼は、世間のニートの人達と似たかよったかだ」と感じます。そして、「彼は、現時点でもうニートとしての兆候を見せている。そしてきっと、この後何十年も社会復帰せずに、引きこもり続けるのだろうな」と結論付けます。すなわち、「彼はニート予備軍なのだ」という価値判断が、あなたの脳内で下されるのです。そして、あなたの脳内に浮かんでいるその「イメージ」を通じて、彼を見つめるがゆえに、彼の現状がひどいもののように思えるのです。これが、本章冒頭で、あなたに彼への評価を問うた時に、あなたが批判的に感じた原因なのです。
あなたが、彼を「ニート予備軍」として見做すのなら、それは問題です。なぜなら、「ニート予備軍」という評価が、彼のケースにおいて当てはまるかどうかは、本当は分からないからです。例えば、彼がなかなか就職が決まらないのは、彼が怠惰なのではなくて、新たな分野での職を得ようとしているので、そのために必要な資格を独学で取得しようとしているのかもしれません。であれば、彼は働く意欲を十分に持っているので、ニートと呼ぶような人ではありません。しかし、あなたは「ニート予備軍」というあなたの脳内の「イメージ」だけを見つめているが故に、そういった可能性に盲目になってしまうのです。
もしかしたら、彼は、今日、明日にでも再就職先が見つかるかもしれない。しかし、あなたは、そんな発想すらもたないのです。なぜなら、あなたの脳内では、もう既に「彼はニートだ」という結論までもが下されているからです。
脳内の「イメージ」だけを見つめることが、いかに危険性をはらんでいるか、お分かりいただけますでしょうか?人と人との間の緊張や対立、集団と集団の間の緊張や対立、国家と国家の間の緊張や対立、それらの全ては、このことが根本原因なのです。
あなたが、本章冒頭の問いかけに対して、ごく自然に、彼に対して否定的な印象が浮かんだのであれば、是非、次のことを理解してください。あなたは意識は、自動的に脳内の「イメージ」に向けられるようにプログラミングされているのです。あなたが普通の意識状態にあり、あなたが対象の何を感じようとしているのか何も配慮しないのなら、あなたは、自動的に脳内の「イメージ」のみを見つめるのです。あなたが普通の意識状態にあるのなら、とある対象の「それ自体」を見ることは出来ないのです。
私は、このエッセーで、脳内の「イメージ」を見つめるのではなく、対象「それ自体」を見つめることの重要性を、繰り返し指摘してきました。とある対象の「それ自体」を見つめるのであれば、その対象をとりまく状況には、そもそも問題や危機が存在しないことが分かり、あなたは心の安寧を得るのです。この最終章までお読みいただけた、読者であるあなたには、この私の主張をそれがしかご理解いただけたと思います。
しかし、その重要性を認識してでもなお、あなたの意識は、自動的に脳内の「イメージ」に向いてしまうのです。上の質問において、失業中にある人もしくは無職である人に、否定的な印象が浮かんでしまうのあれば、それが、その証拠なのです。
自動的に脳内の「イメージ」に意識が向いてしまうのは、あなにとって、それがあまりにも自然なのです。そのパターンやプログラミングを改変し、あなたの意識が対象「それ自体」に向くようにするのは簡単ではなく、心してかからねばならないのです。それが出来るようになるには、根気強く、適切な訓練を積み上げなければいけません。それが実際に出来るようになるには、強い意志をもって訓練をやり遂げようとしなければならないのです。変化を望むあなたの強い意志が必要であること、そのことをここで強調しておきます。
第二節:スピリチュアルなアプローチの特殊性:通常のアプローチとの比較
引き続き、失業というケースを取り上げます。今度は、仮に、あなたがリストラの対象になり、職場を去ったとします。その後、職を探す懸命な努力をしていますが、失業後半年を過ぎても再就職先が見つからないとします。あなたは不安や苛立ちを感じます。意気消沈もしています。この状況を乗り越えるにはどうしたらいいでしょうか?
通常のアプローチは、あなたが今困っているのは、仕事をなくしたのが原因だから、仕事さえ見つけられれば、その問題が解消される、という発想に立脚します。そして、どうやったら一刻でも早く新しい職が見つかるのかが、検討されます。面接で好印象を与える方法とか、どうやって人脈を広げて職を紹介してもらうのかとか、そういった方策を見つけ出そうとします。そして、実際に求職先を訪ね面接を受けて、いずれかの企業や店舗で採用されれば、それで問題は解決されます。
それに対し、スピリチュアルなアプローチは、全く違う見地に立ちます。あなたが失業に苦しんでいるのは、失業という事態そのものが問題というよりは、その状況に対して、あなたが必要以上にナーバスになり、フラストレーションを感じている、その心理的過剰反応が、問題なのだと考えます。つまり、ここで問われるのは、あなたが、あなた自身を、その状況とどう関連づけようとしているのか?ということです。
あなたがとある事態に関わるとき、あなたは、その事態を認識し、あなた自身を認識し、両者の認識を元に、その場にどのように関与するかを決めるはずです。このとき、その両方の認識が誤っていたらどうでしょうか?
山登りを例として、考察してみましょう。あなたが山登りする際に、まずは、山の状態を知ろうとします(その状況の認識)。どんなルートがあるのか、それぞれのルートの難易度はどうか、天候はどうか、途中に山小屋はあるのかどうか、等々。そして、あなた自身を知ります(あなた自身の認識)。体調はどうか、十分な飲料はあるのか、岩盤のルートを通るのに適当な道具(例:ピッケル)はあるのか、等々。そして、その両方の理解を基準として、あなたがどのように山道に臨むのかを、あなたは判断します。例えば、天気は良いけど、登山3日目で疲労しているので、今日は、簡単なルートを通ろうといった具合に。
では、あなたが、山の状態を正しく認識できていないし、あなた自身の状態も正しく認識していないとしたら、どうでしょう?天候を、あなたは問題無いとおもっているのに、実は、ひどい嵐になるのが確実であったり、あなた自身の疲労度が想像していたのよりも、実は、ひどいものだったりしたら、どうでしょう?安全に山登りするのが難しくなりますよね?山登りは、どこかしか、苦しいものになりますよね?
あなたの困苦は、スピリチュアルなアプローチからすると、それは「認識」の問題なのです。あなたが、失業して苦しい状態にあるのは、実は、あなたがあなた自身を誤って認識し、かつ、失業中であるという状況を誤って認識しているからなのです。その詳細については、次節で解説します。
次節に入る前に、一般論として、認識を誤ると苦しい思いをすることを、ご理解いただきましょう。極端な例が、ドン・キホーテです。彼は、騎士道物語の読み過ぎで現実と物語の区別がつかなくなり、自身を騎士だと思い込みます(自身の誤認識)。彼が3-40基の風車に出くわした際に、ドン・キホーテはそれを巨人だと思いこみ(状況の誤認識)、全速力で突撃し、衝突時の衝撃で跳ね返されてしまいます。
ドン・キホーテは極端な例であるにしても、実は、我々の苦しみの大半は、誤認識からもたらされます。例えば、あなたは、大勢の前でスピーチをして、身体が震えて脂汗をかいた、そんな経験がありますよね?それは、まず、あなたは、あなた自身を非力だと思っているがゆえに(自身の誤認識)、状況を制御できないという前提をもっているのです。そして、あなたは、あなたが何がしかへまをした際には、観衆が暴徒と化して、あなたに迫ってくるように思っています(状況の誤認識)。であるがゆえに、スピーチをする際に不安を感じるのです。つまり、あなたが苦しむのは、あなた自身とその状況の両方を誤って認識しているからであり、その苦しみから脱却するには、誤った認識を正す必要がありのです。
第三節:失業してなかなか職が見つからないと苦しいのはなぜか?
引き続き、あなたが失業にあり苦しんでいるケースで説明します。失業という状況を、あなたが恐れるのは、「新しい職が全く見つからない」という可能性が頭をよぎるからです。職が見つからなければ、収入が無いので、いずれ飢え死にするということが、怖いのではありません。あなたは、理屈の上では、生活保護で生活費の支給を受けたり、親類や友人や知人に助けてもらうことで、餓死するようなことはあり得ないことを理解しています。あなたにとって最も恐ろしいのは、「誰からも必要とされていない」と感じてしまうことです。「新しい職が全く見つからない」ということは、「誰からも評価されない」ということを意味するように感じずにはいられないのです。収入が無いことが本当に怖いのではなく、世界で誰もあなたを気にかけてくれず、あなたは世界でポツンと一人で取り残されること、その孤独が怖いのです。
その孤独の恐怖があなたの内側で喚起されるのは、「認識」が間違っているからです。
まず何より、あなたは、あなた自身を誤って「認識」しています。あなたは、あなた自身を、「私の価値など誰も認めてくれない」と無意識の内に悲観しています。その無意識の悲観が、まず最初にありきなのです。その悲観があなたの潜在意識に刻まれた理由の一つは、前章で指摘した通り、あなたの幼少期、周囲の人達から十分に褒められなかったので、あなた自身を無価値だと思い込むようになったのです。
その悲観を基準にして、リアリティーを眺めると、あなたはリアリティーを誤って認識するようになります。あなたは、上記のように悲観しているがゆえに、他の人から承認されることに常に飢えているのです。この時、あなたは、誰を見るにも、何を見るにも、「その人は、私を認めてくれるのだろうか?」と値踏みするのです。不思議なもので、誰かを、常に「その人は、私を認めてくれるのだろうか?」というように疑問に思いながら見つめると、ごく自然に、その人はあなたを認めていないように思えるのです。
それはご理解いただけますよね?あなたが、あなたの夫を、常に「この人は、私を愛してくれているのか?」という気持ちで眺めると、彼の冷たい態度や、彼の嫌味なところ、ばかりが目につくようになり、やがて、あなたの主観には、彼があなたを愛していないように思えてしまうのです。
それと同じように、あなたが、世界を「それは、私を認めてくれるのか?」という気持ちで眺め続けると、世の中の何もかもが、あなたのことを否定しているかのように思えてしまうのです。ですから、前職を失ったのは、あなたの価値が分かってもらえなかった証拠のように思えるのです。「前の職場の上司や同僚が、私(=あなた)を嫌っていたから、職を失った」と、あなたは主観的に思い込みます。
そのように思い込むがゆえに、将来的な展望も暗くなります。就職活動する先々で、やはり、あなたのことは評価されずに採用されないだろうと悲観します。そして、仮に就職できても、すぐに職を失うかのように感じます。そして、世の中の出来事のほとんどが、あなたが無価値であることを裏付けるように、昔も、今も、未来も、展開されているように、あなたの目には映る(状況の誤認識)のです。そして、「世界中の誰も認めてくれない」という戦慄の中に落ち込んでいき、あなたはパニックになるのです。
失業とは、前職を解雇されるか自ら退職し、就職活動をしているけれども、次の職が見つからない状態であり、それ以上でもそれ以下でもありません。しかし、あなたは、あなた自身を誤認識し、その状況を誤認識し、あなたは仕事の見つからない状況を、「誰もあなたを認めてくれないから、仕事が見つからない」と解釈し、そして、あたかも世界全体から拒絶されているかのように感じられ、強い不安に襲われるのです。
このとき、このエッセーで何度も指摘した通り、あなたは失業「それ自体」を見ているのではなく、あなたの脳内で浮かぶ、その陰惨な「イメージ」を見つめているのです。
第四節:評価は価値を決定しない。
おそらく、このエッセーが投げかかているメッセージで、あなたが咀嚼するのに最も難しいものが、「他者のあなたへの評価は、あなたという人間の価値を決定しない」、というもののはずです。評価は価値を決定しない。これは、真実なのですが、我々には、どうもそれを納得するのが難しいです。
例えば、冒頭、第一節で行った議論を思い返してください。あなたは、失業中にある人を、否定的に思うはずです。職を見つけられない人は、能力が低い人、社交的でない人、性格が卑屈な人、品性が低い人、体長が著しく悪い人、怠惰でだらしない人、公私の区別がつかない人、そんな人が雇用者に評価されずに、職を得ることが出来ずにいる。あなたは、そう思うはずです。
あなたが、そう思うのにも理由があります。失業中の人は、既に幾つかの会社を訪ね面接を受けています。しかし、どこの会社からもお呼びがかからなかったのは、複数の会社での複数の面接官が、その人を不適格者であると診断したのです。一人の面接官が、その人を低く評価するのなら、そこには偏見もあるかもしれない。しかし、複数の人がその人を低く評価するのなら、その評価には信憑性がある。だから、あなたには、「失業中の人は、ダメな人間だ」と、思わずにはいられないのです。
しかしながら、いくつもの面接を合格出来なかった人を、ダメな人間、もしくは価値の無い人と思うのは、誤認識です。その理由として、以下に三つの点を挙げます。
まず、一点目、それが一人の面接官の評価であろうが、複数の面接官の評価であろうが、面接官が受験者に対して下している評価そのものは、面接官の脳内に浮かんだ受験者の「イメージ」です。「イメージ」=「受験者」ではあり得ません。脳内の絵が、受験者と同一であるはずがないのです。
絵は、絵が指し示す対象自体では無いのです。象徴は、それが指し示す対象そのものでは無いのです。例えば、ここに、トイレの所在を示す、サインがあるとします。トイレの入り口の脇にしめされている「アレ」です。
あなたは、決してそのサインにおしっこをかけたりしないですよね?それはサインであって、実際の便器ではないからです。実際に用を足すのは、トイレの室内に入り、実際に便器に腰かけてからです。トイレのサインは、トイレそのものではないのです。これは、明確ですよね?
面接官が受験者に下している評価は、面接官の脳内で浮かんだ受験者についての象徴的イメージであって、それは上の例で言えば、トイレのサインに相当します。トイレのサインが、決して便器そのものではあり得ないように、面接官の抱いている受験者に対して抱いているイメージが、受験者本人と同じではあり得ないのです。脳内の絵は、象徴、サインであり、それは本人自身ではあり得ないのです。であれば、その絵がどんなものであっても、それが真実にはなり得ないのです。これがお分かりいただけますか?
面接官が受験者に対して抱く「イメージ」が、どんなに否定的で陰惨なものであっても、それは象徴でしかすぎず、その象徴は受験者本人ではありません。例えば、若かりし頃に、あなたの友達が、「お前の母ちゃん出べそ!」と罵倒したときのことを想像してください。「出べそ」=「あなたの母親」(彼女本人)ではあり得ないですよね?その友達が、あなたの母親について「出べそ」というイメージを抱いた瞬間に、彼女の実際の肉体において、本当におへそがメリメリと突起しているのですか?繰り返しますが、面接官が受験者に、どんな「イメージ」を抱いても、それが受験者本人そのものではあり得ない以上、「イメージ」が受験者の価値を規定するものではないのです。
理由の二つ目。面接官がどんなに優秀であったとしても、面接官は、受験者のリアリティのほんの一部だけの理解から、評価をくだしているのです。それは、受験者の人間としての価値を断ずるに十分なものなのでしょうか?
面接官は、受験者の経歴、そして、面接のときの身なりや印象、実際の会話がスムーズであったかなどを、題材として、受験者が適格者であるかどうか判断します。それだけが分かれば、受験者の一人の人間としての価値も全てわかるのでしょうか?
そんなはずはないですよね?あえて数字で表現するのなら、面接官は受験者のリアリティの0.000000000000000000000000000000000000000000000000000000001%ぐらいの部分を見て、求職中の役職に適任であるかどうか判断しているのです。面接官が、不合格の判定を下すのなら、その受験者の人間としての価値が否定され得るのですか?あり得ないですよね?
私が大学院での修士課程を修了した際、ワシントンDC地区を中心として、約10ほどの研究機関に、研究員の職を求めて申込みをしましたが、一つも合格できませんした。それは、私という人間には価値が無く、ダメな人間だということを意味するのでしょうか?
負け惜しみでこう言うわけではありませんが、研究員の職を得ることが出来なかったのは、スキルが適合しない(森林管理の研究員の職に、海洋生物学を専攻した学生が申し込んでも採用されないですよね?)か、スキルレベルが十分でない(博士号のレベルを求めらている職に、修士号取得者は合格できない)かのいずれかです。仮に、研究員としての加藤優が、能力の低いダメ人間なのだとしても、研究員としての私は、私という人間のほんのひと握りの、小さな側面でしかありません。研究員の職を得ることが出来なかった事実は、私という人間の価値を全否定するものではありません。
理由の三つ目。一人の人間の本源的価値というのは、その本質上、他者が何を言おうが言わまいが、それはただただ、ひたすら、素晴らしく、美しいものでしかないのです。本源的価値とは、前章でもふれた、「美しさ」とか、「尊さ」とか、「心地よさ」とか、「徳」とか、「善」といったもののことです。
ピカソの絵画の「美しさ」は、彼の作品に付与された金銭的価格では規定されません。誰が彼の作品にいくらの値段をつけようが、それは、ただただ美しいのです。そのように、どこの誰があなたを、どう評価しようが、あなたという存在は、ただただひたすら「尊い」のです。野で咲く一輪の花が、ただひたすら、美しいように、あなたの「いのちの輝き」は、ただただ美しいのです。その花は、周囲の人間がそれをどう思おうが、ただただ、美しいのです。その花の美しさは、周囲の人間の高評価に依存していません。あなたの美しさは、他者の評価に依存していません。
あなたが失業中なのだとしたら、新しい職を得ていない状態を、他者があなたを認めてくれないことだと解釈して、あなたは苦しみます。しかし、職を持っているのか、持っていないのかというのは、あなたという存在の価値を決定しないのです。
職とは収入を得るための手段であり、その手段を有しないというのは、喩えれば、たまたま包丁をもっていない板前さんのようなものです。そのとき、たまたま包丁を持っていないがゆえに、調理できない板前さんは、それだけの理由で彼に価値は全く無いのですか?それだけで、彼を無能な調理人だと断じることはできませんよね?「収入をあげる手段」=「あなた自身」ではありません。ですから、その手段が無いからと言って、あなたに価値がないことは意味しないのです。
第五節:あなたの価値はただひたすら素晴らしいもので、それは不変である。
あなたが失業して、精神的に苦しんでいるのなら、スピリチュアルなアプローチは、あたなに、次のことを気づかせようとします。あなたは、職を持っている持っていないに関わらず、あなたという人間は、ただひたすら素晴らしいのです。再就職がすぐに出来ようが、何年もかかろうが、そういったことに一切関係なく、あなたという存在は素晴らしいのです。仮に、今後何年も職が見つからなかったとしても、あなたの周囲の状況がどう変化しようが、あなた自身の本源的価値は不変なのです。
あなたが、あなたという存在「それ自体」を見つめるのなら、あなた自身の巨大さと奥深さを実感します。あなたのいのち「それ自体」は、森羅万象の全てを抱擁することのできる慈しみそのものです。それは、無限に広がり、永遠に広がり、万物を愛でるのです。あなたが、あなたという存在「それ自体」を、理性を通じて捉えようとするのなら、それを感じることは不可能です。あなたの全身をアンテナにして、五感も六感も動因し、あなたが、あなたという存在を丸ごと味わうのを許すのなら、その無限に広がる慈悲が、浮上して、それを実際に体験することが出来ます。
なお、参考までに、多くの精神覚醒者は、いのち「それ自体」を光、眩しさとして知覚します。瞑想中に目をつぶっているにも関わらず、海辺で真夏の日差しを浴びているかのような眩しさを味わうのです。
あなたという存在の本質は、職が今後見つからなかったといって、それで粉砕されてしまうようなヤワなものではないのです。あなたの本源的価値は、職が見つかるのかどうかという議論を、はるかに超越しています。
あなたが、自分の本質を味わうのなら、当然、失業という状況についての見方も自ずと変わってきます。失業という状況は、前職を失い、現在、仕事に就いていなう状態にあることだけを意味し、それ以上でもそれ以下でもないのです。この理解が、失業という状況「それ自体」を認識することです。
この理解を得る以前は、あなたは、「前の職場の皆が私を嫌っていた、だから私は職を失った」というような感情的偏見を抱いていました。そのため、苦しんでいました。しかし、それは、あなたの推測でしか過ぎません。職を失った理由を、あなたがあーだ、こーだといくら思料しても、それは想像の域を脱しないのです。であれば、職場内の私怨や怨恨で職を失ったと考えるだけ、あなたは損しているのです。あなたは、失業という状況「それ自体」を見つめて、そのことに気づくのです。
あなたが、あなたという存在「それ自体」と、その状況「それ自体」を眺めると、最終的には、そこには、問題も危機も無いことが分かります。繰り返しますが、あなたは失業中で、職に就いていないという状況は、あなたに価値が無いということを意味しません。職の有無に関わらず、あなたという存在は、ただ存在するだけで素晴らしいものです。失業したという事実は、あなたがダメな人間だということを意味しません。それが分かれば、将来の再就職の可能性についても楽観できるようになります。それらを咀嚼していくと、あなたは、心の安寧を取り戻すのです。これが、再三にわたり指摘してきた、スピリチュアルなアプローチによる困苦の克服です。あなたが問題だと考えていたことが、問題では無いことが分かり、深く安心するのです。
第六節:存在「それ自体」を知ることで、人生は芳醇になる
あなたが、あなたという存在「それ自体」を知るのなら、あなたは心の安寧を得て、あなたの人生は豊かになります。しかし、存在「それ自体」を知らなくても、物理的に人生を全うすることは十分可能です。本節では、存在「それ自体」を知って過ごすのと、存在「それ自体」知らずに過ごすのとを比較し、どんな差が出るのかを指摘します。そのことで、存在「それ自体」を知ることの重要性を強調し、このエッセーを締めくくることにします。
存在「それ自体」を知るのか知らないのか、ということは、あなたが、あなた自身の存在の奥深さをどれだけ知っているのか、ということに意訳できます。存在「それ自体」を知っていれば、あなたは、あなたという存在が、あなたの肉体を超えて広がっており、あなたという存在には、果て(border)が無いことを、身をもって知ります。あなたが、どこに果てがあるのかトレース(知覚しようとする)すると、どこまでいっても、終わりがなく、あなたという存在が限りなく広がっているのが分かります。それを実感するのではあれば、世界に対峙するあなたの態度が、積極的で楽観的なものになります。
逆に、存在「それ自体」を知らないのなら、あなたは、あなたという存在が、自身の肉体の内部の空間に限定されていると、あなた自身を理解します。あなたは、小さく、底浅く、有限の存在として、あなた自身を定義します。すると、世界に対峙するあなたの態度が、消極的で悲観的なものになります。
では、この違いを、あなたが失業中であるとして、就職活動の態度にどんな差がでるかを検証してみましょう。
あなたが、スピリチュアルなアプローチを全く考慮せずに、あなた自身を見つめなおす作業をせずに、あなたの存在「それ自体」を知らずに、就職活動に臨むのなら、次に示すモード1のように、恐怖に揺れながら、各企業をめぐることになります。
モードその1:あなたは、「誰も私を認めてくれない。だから、全然仕事が見つからないかもしれない」という恐怖に震えながら、就職活動をする。このとき、あなたは、「私はダメ人間だから、私の素の姿がさらされたら、面接官は私を拒絶するはずだ」と悲観している。よって、あなたにとって、面接の機会において、自身の欠点をどう隠すかが最大の関心事になる。あなたは、面接官は、あなたの粗さがしをするという前提を抱いているがゆえに、そつがない会話をしようと努める。すると、あなたと面接官の間の心理的距離も大きく開き、お互いに理解し合えたという感覚が持てない。
あなたが、あなたという存在「それ自体」を、スピリチュアルなアプローチにより味わうのであれば、下記モード2で示すような、安心感の中で、面接に臨むようになります。
モードその2:あなたは、「職が見つかる見つからないに関わらず、私という人間には価値がある。私という人間の資質に適合した職は必ずや、みつかるはずだ。」と安心し楽観しながら、就職活動をする。よって、面接の機会というのは、あなたが、裸のあなたをさらす場でしかすぎない。自分をさらして、それで採用されないのなら、しょうがないと、いい意味で腹をくくっている。会話を取り繕うとせずに、素直に発話するので、当然、面接官との心理的距離が縮まり、お互いに分かり合えたという感慨を味わえる。
どちらのモードで就職活動に臨めば、うまくいくとおもいますか?
私は、住友銀行に在籍中の六年間、採用リクルーターとして、合計で、約100名程度の学生と面接をしました。もちろん、私に採用の決定権はありませんでしたが、次の段階に登れるかどうかを判断することを任されていました。面接の段階は、まず、リクルーター(銀行若手社員)との面接、その次に人事部員との面接、その次に人事部長もしくは次長との面接、最後に役員面接を経て、採用が決定されます。私は、私と面談した学生が、次の人事部員との面接に進めるかどうかを決めていたのです。その際、人事部から、私に向けて次のような指示がありました。「その学生が有能かどうかなんてことは考えなくていい。君(=私、筆者)が一緒に働きたいと思える学生を、次の段階にあげてくれればそれでいい。」と。
ここで、私が問いたいのは、次のことです。あなたがリクルーターであるのなら、モード1で就職活動をしている学生を、次の段階の面接に上げたいですか?恐怖に駆られていて、その恐怖から逃れるために職を欲している学生と、あなたは一緒に働きたいですか?あなたが一緒に働きたいと思えるのは、自身の本源的価値を知り、心穏やかで、安心しつつ、自分から主体的に行動を起こせる、モード2にある学生ではないでしょうか?どちらが、就職により有利であるのか、指摘するまでも無いでしょう。
また、あなたがモード1で就職活動をしている学生なのだとして、仮に就職がうまくいったのであれば、それで全てうまくいくのですか?大団円なのですか?再就職がうまくいったとしても、あなたの心の奥に巣食う劣等感は、そのままじゃないですか?
「誰も、私を認めてくれない」という悲観を払拭すること無しに、新しい職場に赴任したとしても、あなたは常に、「なんで、この人は、もっと私を認めてくれないのか?」という疑心暗鬼を通じて、同僚や上司を見つめ続けます。そして、新しい職場で、あなたはストレスに満ちた日々を送るのです。ですから、あなたの不安感の根本原因である、あなたのあなた自身への誤認識を払拭することが、どれだけ重要なことか、ご理解いただけますでしょうか?
私は、あなたにモード2のように、安堵と楽観の中で、日々過ごせるようになって欲しいのです。スピリチュアルなアプローチにより、あなたという存在「それ自体」を味わってもらえるのであれば、あなたはモード2の中に居続けることが出来るのです。それを伝えることが、このエッセーの目的であります。
自分の本源的価値を正しく認識し、日々の生活を送ることこそが、幸せの鍵なのです。あなたが、本当の自分を知るのなら、あなた自身が、「徳」と「尊さ」と「優しさ」と「美しさ」に満ちた素晴らしい存在であることを確信します。
それを確信すると、「家族に認めてもらいたいから、家族に尽くす」という病んだ動機が無くなります。家族に対するフラストレーションが無くなります。「業績を認めてもらいたいから、仕事に打ち込む」とか「親に認めてもらいたいから、孝行する」という強迫観念も消失します。勤務上のフラストレーションも、親子関係のフラストレーションも無くなっていきます。
あなたは、あなた自身が野に咲く一輪の花のように、ただひたすら美しい存在であることを実感するのです。その美しさを誇り、他者に認めてもらおうとする必要がありません。そして、他の人達、一人一人の人間としての尊厳も、ただひたすら美しいものであることを知ります。お互いの美しさを知ると、美しさを競ったり、批判しあったり、否定しあったりする必要が無くなります。あなたは、深く寛容になり、自分自身のあるがままを受け入れ、他の人達、一人一人のあるがままを受け入れます。他の人達を、あなたの権益や安全のために支配しようという動機が無くなります。かつて味わっていたような、見栄の張り合い、ウソの付き合い、足の引っ張り合い、恨み合い、いがみあい、そういった対立が、あなたの人間関係から消えていきます。あなたは、あなた自身の本質・本性を知ることで、そんな穏やかで潤いに満ちた、お互いを尊敬し合える、人間関係の中で、幸せを感じるようになるのです。
私は、私自身の霊的研鑽の過程を通じて、自分の存在「それ自体」を味わえば、上記のような、意義深い変容を体験できることを確認してきました。あたかも、白い清楚なマーガレットが春に咲き誇るように、あなたも、あなたの内側から、あなたの本源的価値が自然と発露される、あなたという存在の「徳」と「尊さ」と「優しさ」と「美しさ」が自然に開示される、そんな変化を体験したくないですか?あなたが、そんな美しさの開花を体験できることは、私が保証します。
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