最新エッセー:たかが親されど親(超大作!)

親子関係に苦しむ全ての人にこのエッセーを捧げます。 親からの拒絶や親との死別で苦しんでいる人に向けて その痛みをどう乗り越えるのか、を議論します。下記タイトルをクリックしてください。
たかが親されど親 PDF US Letter
たかが親されど親 PDF A4
Web上のHTMLとしてお読みになりたい方は、こちらを。

ガン患者とその家族に向けた資料の公開

2010年に実施したセミナー「ガンと生体エネルギー」で配布した資料を公開します。まずは、こちらから、加藤のメッセージをご覧ください。
Palatine, ILでのイベント:レイキセミナー等

レイキ説明会:6月2日(土)
レイキレベル1:9月1日(土)

日本でのイベント

岐阜県関市開催:6月20−22日
兵庫県西脇市:6月27−28日

エッセー前作

まだご覧いただいていない方はぜひどうぞ
「スピリチュアルな洞察が、どのようにあなたの生活の役に立つのか」
PDF Size A4
PDF Size US Letter
「あなたの幸せの答えは、あなたの内側にある。」
PDF Size A4
PDF Size US Letter

 

エッセイ54 (2018年4月30日著)

たかが親、されど親

魂の観点から見た、親子関係の考察

親を失う痛みを乗り越えるために

著者:加藤優


第二章:本エッセーの主題と汎用性について: 結局のところ、親子問題は「認識」の問題である

あなたに、まずご理解いただきたいのは、本エッセーは、親を喪う痛みに関して、「スピリチュアル」な議論をしているという点です。本エッセーの主題は、あなたが、あなたという存在の本質を知るのなら、あなたは、親を失う痛みを乗り越えることが出来るということです。スピリチュアルであるということ(to be spiritual)は、自分という存在の深みを知るということです。自分を知ることで、なぜ、親を失う苦しみを乗り越えることが出来るのか、それを、このエッセーは論じようとしています。

ここで、本エッセーの主題を、まとめておきます。親を失う(もしくは失った)ことを想ったときに、あなた自身の存在が滅茶苦茶になるかのように感じられてしまうのは、なぜなのでしょうか?それは、前章で簡単に触れたとおり、あなたの内側で過剰反応が起きているからです。

なぜ、過剰反応が起きるのか、その詳しい解説は、第四章で行いますが、その核心をここでまとめておきます。あなたは、自分自身を小さく脆弱な存在だと、無意識の内に思い込んでいるが故に、親という庇護(特に精神的な意味で)無かりしば、自分の存在が危うくなると感じてしまい、パニックに陥ってしまうのです。

つまり、あなたがあなた自身をどう「認識」しているかが問題なのです。親を失う時の苦しみとは、愛する者を失うという喪失感が中心的な問題なのではなく、あなたがあなた自身を間違って認識しているが故に、親が消失した時に、あなた自身も消失してしまうかのように感じられることが、問題の核心なのです。その苦しみは、「認識」の問題なのです。ですから、親を失う苦しみから解放されるには、「認識」を修正すればいいのです。

あなたがあなた自身を見直し、あなた自身を今よりも深く味わうのであれば、あなたという存在が、あなたのこれまでの理解を超えて、かつ、あなたの肉体をも超えて、大きく広がっているのを感じるようになります。あなたは、自分で感じるよりも、もっと巨大で、もっと深く、もっと芳醇で、もっと生産的で、もっと他者に施すことが出来る、そんな存在であることに気づくのです。これまでにあなたが自身に対して抱いていた古いイメージ:「これが私なんだ」という理解が、完全に的外れであることに気づき、全く新しい姿を自分自身の中に見出すのです。

このとき、あなたは、まるであなた自身が生まれ変わったのように感じます。なぜなら、波動の観点からすると、あなたがかつて自分に抱いていたイメージ(例:「自分は愛されていない」、「誰も私を認めてくれない、私という人間の価値は低いのだ」)は、鋼鉄の鎧のようなエネルギーの塊として、あなたのオーラに停滞していたのです。

自己のイメージが刷新されると、そのエネルギーの塊を脱ぎ捨てることになりますので、当然、あなたは、自分自身を、軽く、広大で、澄み切っているように感じます。

この自己変革は、アンデルセン童話の「みにくいアヒルの子」の主人公が、自分が白鳥であることに気づいた時に体験した、精神的解放に相当します。自分がみにくいアヒルなのではなく、美しい白鳥であることを分かった瞬間に、それまでに経験していた、恥、悔しさ、恨み、呪い、いっそ死んでしまいたいという絶望が、全て霧散していき、主人公は、自身が生まれ変わったかのように感じます。

ここで、重要なのは、実際に主人公の存在が、アヒルから白鳥に生物学的に転換されたわけでなく(主人公は、物語の最初から最後まで白鳥であり続けていたわけです)、「自分は本当は何者なのか」に気づくことで、精神的解放を得た点です。「認識」の変化で、精神の飛躍が発生したのです。

あなたが自己探索を進めていけば、最終的には、あなたは、あなたの本質を深く味わえるようになり、あなたは、「自分は本当は何者なのか」を悟るのです。あなた自身の自画像が刷新されます。そして、あなたとあなたの親との関係についての理解も刷新されます。魂の観点から見た親子関係を目の当たりにすると、あなたは親を失う痛みを超越して、その痛みに凌駕されることが無くなっていきます。その点については、第六章:本当の自分を知る、で詳細を述べます。

このエッセーは、あなたがあなた自身の内面を深く探索し、あなたという存在の本質(私が魂と呼ぶ、あなたの精神の基盤)を体験することを推奨するのです。

このエッセーは、親を失うことを、題材として取り上げていますが、このエッセーの主題は、実は、親子関係に潜むほとんど全ての問題に適用可能です。親を失うことの痛みが「認識の問題」であるように、親子関係において、あなたが何がしかの苦しみを体験してきたのであれば、それも、究極的には、あなたの「認識の問題」なのです。

なぜ、親子関係の問題のほぼ全てが、「認識の問題」だと断定できるのか、それをここで解説します。ここで、まず、あなたにご理解いただいたいのが、親子関係の問題について、筆者である私の焦点の置き方(見つめ方・目の置き方)と、読者であるあなたの焦点の置き方に、乖離があることです。

私は、あなたが、あなたの親との関係において、あなたが何を感じているのか、あなたの内面の状態(being)に焦点をあてています。それに対し、あなたは、親との関係において、実際に何を行っているのか、その行動(doing)について焦点をあてています。

あなたは、親子関係において、あなたの行動(doing)にばかり、注目しているはずです。例えば、親はあなたと遠く離れて別居しているのであれば、あなたは、「どのくらいの頻度で電話をかけて、安否を確認しているか?」とか、「今年は、どれくらい仕送りしてあげられたか?」とか、「このお盆休みに、子供達(あなたの親から見て孫)と触れ合う機会を親にあげられるかどうか?」とか、気にかけるはずです。

もし、仮に、何がしかの理由で、親との対立が続いていて、断絶した状態が続いているのだとしても、あなたは、心の内では、実は、「どうしたら、親と和解できるのか?」を気にかけているはずです。親子関係が良好であれ、敵対的であれ、あなたは、基本的に「私(あなた)は、親に何をしてあげられるのか?」とか「双方が幸せであるために、私(あなた)は何をすればいいのか?」ということに腐心しています。そうですよね?

そんなあなたにとって、基本的に親子関係の問題とは、「行為(doing)」の問題と言えるのです。あなたが親へむけて、何がしかの奉仕をしたり、協力をしたり、献身をしたり、サポートをしたりした際に、それが、父親や母親の期待を満たしていないがゆえに、彼・彼女があなたに不満を向けている状態、それが親子間での対立の原因である。あなたの目には、そう映っているのです。

ですから、あなたは、その問題を解決するために、「どうしたら、私は親の期待を満たすことが出来るのか?」と思案に暮れます。もし、親が的外れな期待をあなたに抱いているがゆえに、彼らが満足することが無いのなら(例:親はあなたと同居することを希望しているが、伴侶の勤務地や子供の教育の関係で、同居は不可能)「どうしたら、私は親の期待を下方修正出来るのか?」について思い詰めます。「私は、どうするべきなのか?」という、doingの問いかけを、あなたは自分自身に向け続けているのです。

しかし、実は、その理解に、親子関係の問題の本質はありません。あなたが、「私(あなた)は、親に何をするべきなのか?」を気にする限り、親子関係の問題が解消されることはないのです。

親子関係におけるあなたの苦しみは、あなたの「行為」が親を十分に幸せにしているかどうか、「行為」そのものが問題なのではありません。あなたが「行為」をどう「認識・評価」するかにあるのです。あなたがどれだけの努力を払って、親のために何かの行動をとっても、あなたが、あなたの行為について、それが親の幸せに貢献していないと「認識」するのなら、その「認識」により、あなたは後悔をし、罪を感じ、悲しみや怒りを感じ、あなたの内面はそんな感情で満ちて、あなたは苦しむのです。結局のところ、重ねて強調しますが、親子関係の問題は、あなたの「行為」の問題なのではなく、あなたの「認識」の問題なのです。

親へ向けたあなたの行為を、あなたがどう「認識」するかは、あなたの内面の状態によって規定されます。これが、私が、あなたの行為(doing)に注目するのではなく、あなたの内面の状態(being)に注目する理由です。

さて、ここで、自問自答してみてください。「私(あなた)は、どれだけ親を満足させているか?(私は、どれだけ親の期待に応えているか?)」と。その答えは、「親は、私に満足していない」という失意なのではないでしょうか?

そして、あなたは、こうも感じているはずです。あなたは、あなたなりに、親を満足させるように最大限の努力をしています。しかし、あなたの努力は、親に十分に評価されることはなく、十分に感謝されていないと。あなたという存在自体が、親に受け入れられていないとすら、あなたには感じられます。

再度強調しますが、あなたがそう感じるのは、あなたの「行為」の精度・練度(=あなたがどれだけ素晴らしい行為を親に提供しているか)が問題なのではありません。あなたの努力が足りないから、親が不満足であるのではありません。あなたの親が不満足で、あなたに十分感謝していないから、あなたは、「私(あなた)は、親に受け入れられていない」と感じているのではありません。あなたの内面において、「私は、親に受け入れられていない」という思い込みが、最初にありきなのです。換言すれば、あなたの親は、あなたのせいで不満足なのではなく、あなたが、親が不満足だと思いこんでいるから、あなたには、そのように感じられるのです。

あなたは、あなたの内面において「私(あなた)は、親から拒絶されている」という前提を抱いているのです。その前提を通じて、無意識のうちに、親子関係を眺めているがゆえに、あなたの目には、あなたの行為が、親の幸せに貢献していないように、映ってしまうのです。

例えば、あなたが親を温泉旅行に連れ出し、親があなたに「ありがとう」と感謝したとしても、その前提を通して、親の反応を見つめているために、あなたには、親が温泉旅行を心底楽しんでくれたようには、感じられないのです。あなたは、「まあ、こんなもんか(=親はもっと喜んでくれるはずだったけど。)」と拍子抜けするのです。

そうではないでしょうか?あなたが親を喜ばせようと努力して、「こんなもんかな」と失望したことが、過去にどれだけありましたでしょうか?すなわち、あなたが期待したほどには、親が喜んでくれなかった、とあなたには感じられたこと、それがどれだけ過去にあったでしょうか?たくさんあったのではないでしょうか?

「私(あなた)は、親から拒絶されている」という前提がどこからやってきたのか?それは、基本的には幼少期のトラウマからもたらされたものです。幼少期に親から無視されたことで、孤独感を感じたのであれば、「私(あなた)は、自分の親すらからも受け入れられない、孤独な存在なのだ。親すら私を愛してくれないのだから、私は、誰からも愛されない」という悲哀が、潜在意識に刻印されてしまいます。

ここで、親から無視されること、親が子供の心情的ニーズをくみ取ってくれないこと、そういったことを過小評価しないでください。親も人間ですから、一日24時間、子供に優しくすることはできません。ですから、古今東西、どこの家庭においても、育児において、親が子供に冷たくする瞬間があるのは、いたしかたないものです。それが、あまりにも普遍的であるがゆえに、我々は、それを大したことではないと思ってしまいます。

しかし、親に十分ケアされない瞬間、親から突き離れされたり、放っておかれる瞬間というのは、子供にとっては、深刻な意味を持ち得るのです。自分の生存の全て(衣食住)を親に依存している小さな子供にとって、親とは「世界」そのものです。親から拒絶されると、子供は、自身が世界中の人から見放されているかのように感じてしまうのです。

人間とは集団で生活をする種ですので、「世界中の人から見捨てられている」という悲哀は、物凄く強い恐怖を喚起します。あなた(子供)は、あなた自身が生き残るために、周りの人から愛されたい、認められたいと願うようになり、そして、あなた(子供)の内面には、ごく自然に、あなたの親や周りの人に貢献したいという動機が芽生えます。貢献することで愛されようとするのです。

この動機は恐怖に根差しているがゆえに、やがて、「貢献できないのなら、誰からも愛されず、自分は生きていけない」という強迫観念すら感じるようになります。なお、この強迫観念が潜在意識に芽生えてしまった人は、成長すると、とても勤勉に、自己犠牲を厭わず、会社や家族や友人のために尽くし続ける、そんなタイプの大人になります。

この潜在意識での強迫観念を、あなた(大人)は、強迫観念として自覚はしていないけれども、何か「親に特別なことをしてあげたい」という想いや願望として、感じているはずです。

例えば、あなたが夏休みに親を軽井沢の貸別荘に連れていった時に、親がその貸別荘から見渡せる山あいの風景をいたく気にいり、「たまに、こんな風に別荘を借りるのもいいけど、老後は、こんな別荘に住んで、この景色を毎日見たいものだね」と親がぼやいたとしたら、あなたは何を感じますか?

あなたは、親に別荘を買ってあげたいと思いますよね?実際に別荘を購入出来るかどうかは別として、それをしてあげたいと感じますよね?もし、あなたの経済状態からそれが不可能であるのなら、あなたは何を感じますか?あなたは、親が喜ぶことをしてあげられないことを、悲しむのではないでしょうか?

あなたは、自分で自覚している以上に、「親に特別なことをしてあげたい」という動機に駆り立てられているのです。それが、予算的には実現不可能であることを理解していても、心情的には、それをしてあげたくて仕方がないのです。そして、それをしてあげられないのなら、あなたは悲しくなるのです。予算的に別荘を買ってあげられないのは、自明の理だとしても、とても悲しくなるのです。その悲しさは、あなたの強い動機の反映です。別荘を親に勝ってあげたいというアイデアは、「出来たらいいなあ」という乾いた夢想なのではなく、「やらなければいけない」という使命としての熱さを帯びた想いなのです。

引き続き、この別荘の例を議論しながら、要点をまとていきましょう。あなたの目に、あなたの親が、今一つ幸せでないように見えるのは、あなたに財力がなく、親に別荘を買ってあげられないからだ、とあなたは考えます。あなたは、親子関係の問題を、行為(doing)の問題だと考えているのです。

しかし、問題の本質はそこにはありません。既に指摘した通り、あなたは「私(あなた)は親から拒絶されている」という前提を抱いているがゆえに、あなたの内側で、「何か特別なことを親にしてあげて、親が特別に幸せにならない限り、私が親から愛されることは無い」という強烈な思い込みが、深層心理に存在します。この、親に貢献しようとする、あなたの意欲があまりにも強いことが問題なのです。その思い込みが強いがゆえに、あなたは、別荘を買ってあげられないとう事実に、痛く傷つき、必要以上に落ち込むことになるのです。

仮に、あなたが別荘を実際に勝ってあげられたとしても、あなたの目には、親が十分に満足してくれているようには見えず、そのため、あなたが満足することはありません。なぜなら、あなたは、親に「特別なことをしてあげよう」と動機づけられているがゆえに、自然と、親から「特別な反応」が示されることを、無意識の内に期待してしまうのです。

例えば、あなたが買ってあげた別荘に親が引っ越したのなら、あなたは、親が毎日のように、あなたに電話してきて、号泣しながら謝辞を述べてくれるぐらいに、親が感動してくれるのを、心情的には期待してしまうのです。しかし、実際、そんな反応は見られない。そして、あなたは、客観的には素晴らしい貢献を親にしていたとしても、主観的には失意を感じるのです。

まとめると、あなたの内面において、「私は、親から認められていない」という想いが刷り込みされているために、「親に特別なことをして喜ばしたい」と動機付けられているのです。この動機は、親から愛されることで自己存続を図るためのものなので、それは、あなたが自覚しているよりも、ずっと強力なものなのです。この動機があまりにも強力である、すなわち、あなたにとっての親孝行のゴールがあまりにも高く設定されているために、あなたが実際にどれだけの努力を払って親に貢献しようとしても、あなたの行為が全て不十分であるように、あなたには「認識」されます。あなたが、あなたの行為をそのように「認識」すると、あなたの内面は、悲しさや罪の意識で満たされて、あなたは苦しみの中でもがくようになります。

親子関係において、あなたの内面の、思い込みや動機や認識、それらがあなたを苦しめるのです。あなたが実際に、親のために何をしているかが、問題なのではないのです。あなたが、それをどう「認識」するのか。なぜ、そのように「認識」するのか?その「認識」をかたどっている心理的要因は何なのか?あなたが、親子関係で苦しむ原因は、全てあなたの内面にあるのでって、外面には無いのです。

では、その「認識」を変革するためには、何が鍵になるのでしょうか?それは、あなたが、あなた自身の誤解を解消することにあります。まず、あなたは、あなた自身の「認識」を変革する必要があるのです。

上記に示した、「親から拒絶されている」という思い込みについて、それがなぜ、あなの内側に刷り込みされてしまったのでしょうか?それは、幼少期の時に、親があなたに冷たい態度をとり、あなたを突き放した時に、あなたは、「私(あなた)は、愛されるような存在ではないのだ。だから、親は私に怒りをぶつけてくる」と解釈し、自己否定したからなのです。

これは、アンデルセン童話の「みにくいアヒルの子」の主人公が、周囲のアヒルの雛たちから、不細工だと揶揄されたときに、「自分は醜いのだ」と思い込んでしまったことに相当します。あなた(子供)は、あなたの親の冷たい態度を観察したときに、「私(あなた)が醜いから、親は私を愛してくれないのだ」と、あなた自身を誤解してしまったのです。

ここで、人間の精神の基本性質に注目してください。我々は、外界の世界をどう見るかについて、自分自身の定義を常に参照しています。自分自身に自信がもてずに日々緊張して過ごしているのなら、世界とは、あなたを敵視してあなたを襲おうとしている人で満ち溢れているような場所として感じられてしまいます。逆に、自分に自信が溢れているのなら、世界とは、あなたに好意を抱いた友人達で占められている場所であるかのように感じられます。

そんな経験をしたことがありますよね?例えば、朝起きると、ラインであなたの親友から、あなたに深く感謝するメッセージが届いていたとします。あなたは、それに感激し、あなたという存在に価値があるように思えます。そういうムードでいると、一日がバラ色です。丸一日、幸運に恵まれているように感じられます。

例えば、朝食時、食卓で親と会っても、朝の挨拶を気持ちよく交わし、会話もはずみます。会社へ向かうのにバスにのっても、運転手の「ご乗車ありがとうございます」のいつもの挨拶も、あなたを歓迎しているように感じます。会社に到着しても、前夜に、清掃員が窓際に生けてくれた花に目がとまり、嬉しく感じます。普段は軋轢を感じる、会社の上司や同僚とも気持ちよく会話している自分に気づきます。あなたの周りの万物が、あなたを祝福してくれているとすら感じる日、そんな経験はありますよね?そんな経験の起点が、あなたがあなた自身を素晴らしい存在であると感じていること、それが世界をバラ色にしていることを、ご理解いただけますでしょうか?

つまり、あなたの親があなたをどう思っているのか、それをあなたがどう感じるのかは、実は、あなたがあなた自身をどう思っているのかが基準になるのです。

あなたが、あなた自身を、「自分は欠点だらけで、愛されるべき存在ではない」と定義付けするのなら、あなたの親があなたへ冷たい態度を向けた時、親の真意がどうであれ、その冷たい態度を、あなたが親に愛されていない証拠であるかのように感じてしまうのです。あなたが、自分を否定的に認識している結果として、親の態度が、否定的に感じられてしまうのです。

逆に、あなたが、あなた自身を誇りに思い、「私は愛されるべき存在だ」と心底信じているのなら、親があなたを罵倒するようなことがあっても、「親が私を嫌うから怒っているのだ」と感じることはありません。「親が怒るのは、単に、彼(彼女)が機嫌が悪いからだ」と認識することすらできます。あなたがあなた自身を愛せていて、心が落ち着いているのなら、あなたに怒りを見せる親に同情すらし、親を許すことができます。

ですから、親子関係で、あなたが苦しんでいるのなら、実は、あなたの親があなたを苦しめているのではありません。あなたがあなた自身をどう認識しているのか、それを基準に親子関係をどう認識しているのか、あなたの「認識」があなたを苦しめるのです。ですから、親子関係の苦しみを解消するには、あなたは、あなたの内面の探索を経て、その「認識」を刷新するしかないのです。

あなたが、「本当の自分」を見つけたのなら、あなたという存在の本質は、あなたの親がどれだけあなたを蔑んでも、嫌っても、批判しても、何ら影響を受けずに、あなたの本質は、大きな山のように、全く揺るがないこと、それを知ります。それをあなたが身を持って知れば、あなたは、親子関係の問題を超越するのです。

ここに、本エッセーが、親子関係の問題への対応として、スピリチュアルな議論を展開しようとしている理由があります。親子関係の問題を乗り越えるには、究極的には、あなたは、「本当のあなた」を知る必要があるのです。

ここで、親を失った痛みをどう克服するのかという議論と、親が存命であるとして、親子関係における一般的な苦しみ(例:親があなたに批判的)をどう克服するのかという議論、その両者の議論が同じ結論にたどり着くことに注目してください。両者は、「認識」の問題であります。「認識」の問題の中核は、あなたがあなた自身をどう「認識」しているかにあります。あなたが、「本当のあなた」を見つけるのなら、親を失った痛みも、親子関係での一般的な苦しみも、乗り越えることが出来るのです。

このエッセーは、あなたの親が高齢で苦しんでいることや、あなたの親が他界したことを題材として取り上げていますが、それに当てはまる読者だけを対象にしているのではありません。親子関係における、ほとんど全ての苦しみから解放されるために、必要な洞察を、このエッセーは提供しようとしています。親子関係において、何がしか苦しんでいる全ての方に、このエッセーは光明を差すことでしょう。

特に、親子関係において、次のように苦しんできた人は、次章以降の洞察が役立つはずです。

・私の親は、私をひどく罵倒し続け、否定し続けたために、自尊心が育まれなかった。私は、今でも自分に自信がもてず、常に、びくびく怯えている。
・私は、親に私の心情を深く理解されたという、実感が無い。親は彼らの価値観を基準に正しいと思われることを私に押し付けるだけで、私の心情は常に無視されてきた。
・私の親は、アルコール中毒で、言動に一貫性がなく、感情の起伏が激しかった。そのため、私は、親がいつ機嫌が悪くなるかと怯えて過ごしていた。
・私の親は、何かがうまくいかないと、それを常に私のせいにしてきた。よって、彼らの現在の不幸せ(例:病気、孤立)は、それが、私のせいであるように感じられてしまう。
・私は、親に深く愛されたという実感が無い。親は勤勉で、私の生活と成長を支えてくれたが、感覚的に感情的に、深く受け入れられていたとは、感じられない。
・私は、親の言うことに逆らえない。結婚相手の選択や、職業の選択など、親の反対を押し切ってまで、自分の意志を通すことは、私には出来ない。
・私は、親を軽蔑している。私の親のような存在にはなりたくないと常々思っている。そうであるにも関わらず、親が私にしてきたような言動や態度(例:せっかんする)を、私が私の子供に施している瞬間があり、その時、私は自己嫌悪に陥る。

この文脈において、このエッセーの主題を次のように言い換えることが可能です。
(1)「親から認められないこと、もしくは、親から理解されないこと、もしくは、親と感情を共有できないこと、もしくは、親から突き離されること、それが、どうして、我々にとって、自分がどうにかなってしまうと感じられるほどに、辛いことなのか?」
(2)「親から認められない、愛されていないという苦しみから、立ち直るためには、我々はどうしたらいいのか?」

このエッセーは、スピリチュアルな観点から、あなたの親子関係についての認識を考察し、それを刷新するものです。このエッセーは、外面から内面、doingからbeingへの視点変更をあなたに求めます。その考察を進めるうえで、あなたの親が高齢で死去するかもしれない状態(または、死別した状態)を取り上げ、それに対するあなたの心理的反応を吟味します。そこで得られる洞察は、親子関係の様々な問題に適用可能です。あなたが、親子関係からの負の影響を乗り越え、苦しみから自由になり、あなたの親をただ祝福出来るようになれるのを、私は心より願い、このエッセーを捧げます。

第三章へ

   

本ページの文章及び写真などの映像の著作権は、Atman Well-beingに帰属しています。無断転載、無断コピーなどはおやめください。
@ 2005 Atman Well-being. All Rights Reserved.