エッセイ49 (2017年11月9日著)
スピリチュアルな洞察が、どのようにあなたの生活の役に立つのか?
認識を一新することの考察:「それ自体」を知ることで、
苦しみから解放されるのは、何故なのか?
著者:加藤優
第一章:スピリチュアルなアプローチにおける誤解
スピリチュアルなアプローチを構成する、洞察や知恵、瞑想などの実際の過程、それを提供するセラピストや教師、それらほど、世の中で、誤解、曲解されているものはありません。また、その誤解が生まれても致し方無いと思えるほどに、スピリチュアルなセラピーやその過程が、世の中では、不健全に運営されていることも事実です。それであるが故に、多くの人達は、自分が困った時に、スピリチュアルなアプローチに頼ろうとしないのです。ここでは、誤解や不健全な運営について、下記の二点を指摘します。
第一節:スピリチュアリティに対する誤解:スピリチュアリティ=超常現象
(1) スピリチュアルなアプローチで、問題を解決するということは、超常現象により、物事を解決することだと、誤解されている。
例えば、あなたが貧乏で苦しんでいるとしましょう。どんなに収入を増やそうとしても、どんなに節約しようとしても、借金が増える一方で、借金取りに追われ、つらい日々を送っているとします。
この状況を、スピリチュアルなアプローチで対応するというのは、あなたは、例えば、以下のような過程を想像することでしょう。
あなたは、満月の夜に、部屋やあなた自身を線香で清めたあとに、精霊を召喚する呪文を唱えます。例えば、次のような感じで。「光の精霊よ、汝の住まいし輝ける世界より、門をくぐりて我が前に出でよ!我が求めに応え給え!」すると、部屋の窓の外側から閃光が差し込み、やがて、その光が人の形をつくりはじめ、やがて精霊となって、あなたの前に姿を現しました。あなたは、あなたの苦境を精霊に説明します。そして、精霊は、「そちの苦境、痛く理解した。それは、明朝に解決される。」と言葉を残して、その姿を消しました。翌朝、あなたが目覚め、自宅の玄関の前に、アタッシュケースが置いておりました。そのアタッシュケースの中には、4325万円の現金が入っており、現在の借金の総額とぴったり一致しています。その総額を知っているのは、あなた自身と昨晩話した精霊のみです。あなたは、その現金が精霊からもたらされたものであることを確信します。
そういったことが現実に起きえないことは、ご理解いただけると思います。あなた自身が抱える問題を、精霊に解決してもらおうという思考回路は、欲しいおもちやを、サンタクロースにお願いして入手しようという思考回路と全く一緒です。精霊が、借金を帳消しにしてくれるだけの現金を用意してくれるというのは、全く非現実的であり、幻想でしかありません。
しかしながら、上であげた例で、そもそも精霊は現実に存在しているのどうか、実際に精霊を召喚して本当に遭遇出来るのかという議論はさておき、「精霊にでもすがりたい」という心境を、あなたは理解できるはずです。俗に言う「困った時の神頼み」です。神仏の神秘的な力に救われたいと思ったことは、これまでに何度かあったはずです。実際に、神社やお寺にお参りし、困苦が解消される(例:家族の病気が治る)ように祈ったことはありますよね?そして、スピリチュアルなアプローチとは、目に見えない神秘的な力によって、日常の問題を解決しようとすることなのだと、あなたは理解しているはずです。
精霊に限らず、例えば、タロットカードや水晶玉で未来を占うことで、困苦に対応する、予知能力やESPを使うことで、問題の解決を図る、守護霊や天使に、自分がどうすればいいかを聞く、こういった試み全般がスピリチュアルなアプローチだと、世間一般では考えられています。しかし、これらは、私がここで言うところのスピリチュアルなアプローチなのではありません。これらを、私は、呪術的、オカルト的、もしくは、ブードゥー的なアプローチと呼んでいます。スピリチュアルなアプローチと、呪術的なアプローチは、その性質上、全く異なるものであり、両者は混同されるべきものではありません。
スピリチュアルなアプローチとは、詳しくは次章以降で解説します。ここでは、かいつまんで要点のみを述べます。それは、自己認識(あなたはあなた自身をどう体験していて、自分自身をどう了解しているのか、その認識)と世界認識(あなたは世界をどう体験していて、世界をどう了解しているのか、その認識)の両者を、抜本から刷新し、全く新しい自分の在り方を会得する、そういった内面の変化を指します。
そういった精神覚醒を体験し、自分という存在の本質を深く味わうと、自分自身を無限に広がった大いなる存在として感じるようになりますので、これまであなたを苦しめてきた問題が、相対的に縮小したように感じられるようになります。あなたがこれまで、問題だと考えていた問題を、もう問題視しなくなるのですから、困苦から、あなたは解放されます。これが、仏陀やジーザスを含め、世の賢人たちが提唱しているスピリチュアルなアプローチによる、問題の解消です。
スピリチュアルなアプローチとは、問題そのものを解決することを目指しているのではなく、あなた自身が問題を超越することで、あなたが問題から影響を受けない状態になることを目指しているのです。
これに対し、呪術的なアプローチとは、どんな媒体(例:水晶、天使)を利用するのであれ、なにがしかの「おまじない」を施すと、目に見えない神秘的な力が作用し、やがて、問題が解決されていくのを期待することです。一言でまとめれば、呪術的なアプローチとは、「祈れば救われる」もしくは「信じれば救われる」を地で行くものなのです。これは、例えば、京都の須賀神社(交通安全にご利益がある神社として有名)で購入したお守りを、車のフロントガラスにつるしておくと、交通事故には遭わないと信じる、そんなメンタリティーに立脚しています。
私は、呪術的なアプローチそのものを批判しているわけではありません。「祈る」ことが我々に一定のメリットをもたらすのは間違いありません。人間一人一人の意識は、存在の根底で繋がっています。ですから、例えば、あなたが深刻な病気の娘さんを抱えているとして、「どうか、娘の病気が治りますように」と祈るのなら、あなたの意識は波動として、人間の集団意識のネットワークを伝播していきます。それは、ちょうど、池の真ん中に小石を投じると、波の環が発生し、その環が外側に広がっていくような、そんな感じで、あなたの祈りは、集団意識の海を広がっていくのです。
そして、娘さんの病気を治すことができる技術をもっているセラピストが、あなたの発した意識の波に対して、無意識の内に反応し、知らず知らずのうちに、あなたとそのセラピストが巡り合えるように運気が流れる、そんなことがあり得るのです。世間で言われる、「良縁に恵まれる」ということは、実は、「祈り」(それを願うこと)の結果であるのです。私は、「祈り」の効能を認めますので、呪術的なアプローチを根底から批判しているわけではありません。
ただし、私が呪術的なアプローチに賛同するには、一つ条件があります。「祈り」が健全に運営されている限りは、という条件です。世の中では、その不健全な運営が横行しています。新興宗教の団体や、霊感商法を営む自称霊媒師は、「祈り」を、人を支配する道具として使用します。「信じないと救われない」とか「祈らないと不幸に見舞われる」と語り掛けて、人の恐怖心をあおります。そして、例えば、「あなたに男性運が無いのは、あなたが真剣に祈っていないからだ。一人で祈るのではなく、我々と共に祈ればいい。」と、新興宗教の団体に入会を迫ります。また、自称霊媒師は、「あなたの家族の皆が原因不明の難病に見舞われているのは、先祖の供養が足りないからだ。この供養塔を購入して、毎日、供養のお祈りをしなさい」と言って、高価な霊感グッズを売りつけます。
これらは、目に見えない世界への恐怖心を、巧妙にあおり、人の弱みに付け込んだ、悪質な恐喝行為であります。誰だって、目に見えない世界には、一抹の不安を感じますよね。例えば、あなたが神社でおみくじを引いて、凶がでたらどうしますか?おそらく、あなたは厄払いとして、その凶のみくじを、境内の所定の棚や木に結びますよね?それをしないで気分良くいられますか?
あなたは、その「凶」のみくじが、本当にあなたの生活に不幸な出来事がもたらされる兆しであることが、怖いのです。それと同じように、自称霊媒師が「成仏していない先祖の霊が、あなたの周りに漂い、あなたや家族に悪さをしている。それで、あなたの家族の体調がすぐれないのだ。」と、あなたに言えば、あなたは理屈上は、それに半信半疑であるのですが、「それが本当だったら嫌だな」と一抹の不安感を感じるのです。この不安感は、凶のみくじを厄払いしない時に感じる不安感と全く一緒です。
我々は、心のどこかで、不運、厄、怨念、悪霊、成仏していない先祖の霊、生霊、水子の霊、祟りといったものに怯えています。そういった不安が下地にあるのを利用して、新興宗教や自称霊媒師は、あなたの不幸の原因はそこにある、とあなたに迫ってくるのです。残念ながら、そういった悪質な呪術的な活動が、世の中で横行しているのです。
であるがゆえに、多くの人々は、呪術的な活動をいぶかしく思い、嫌悪感さえ抱くのです。ここで、私として残念なのは、内面の精神覚醒を通じて、日々抱える問題を超越しようというスピリチュアルなアプローチも、世間では、呪術的な活動と同じものだと考えられ、嫌悪の対象となっていることです。スピリチュアルなアプローチ、すなわち精神覚醒を目指すことも、呪術的なアプローチ、すなわち精霊や先祖に祈りを捧げることも、両者は、目に見えない世界での出来事なのであり、両者は、あやしく危険なものであると、考えられているのです。
第二節:スピリチュアルなアプローチの健全性
精神覚醒を目指すスピリチュアルなアプローチは、あやしく危険なものなのでしょうか?私は、「否」と答えます。なぜなら、適切な訓練を積むのなら、人は、通常の精神状態を超越し、変性意識状態に統合されていき、日々、心穏やかに充足感を感じて過ごせるようになることが、実証されているからです。
通常の精神状態にある時、あなたはあなたの「自我」を通じて、リアリティを認識します。「自我」とは、あなたの精神内に作り上げられた、あなた自身の存続を図る警戒システムであります。「自我」の目とは、「門番」や「警備官」の目と同じです。そんな目で、世の中を見つめれば、あなたの周りの人達が、仲間なのでは無く、あなたをだましたり、あなたを傷つけたり、あなたを悪質に利用したりする敵のように見えてきます。「自分自身と世界・他者は敵対しており、自分自身が生き残るためには、世界・他者との闘いに勝利を収めなければならない」、という世界観が出来上がります。この世界観の中であなたが生きるのであれば、ストレスに満ちた生活になるのは、自明の理です。
変性意識状態にある時、「リアリティーを理解しよう」という意欲が霧散していきます。なぜなら、あなたという存在は世界そのもの、あなた自身がリアリティそのものであることを自覚するからです。あなたが世界そのものなのですから、何があなたの脅威になり得るのかとか、何があなたの人生の目的を支援しえるのか、といったことを解析しようとする努力が必要なくなるのです。大空があなたを見つめるようなまなざしで、あなたはあなた自身を見つめます。万物の「あるがまま」を受け入れます。そして、「自分と世界・他者は一つである。世界が私自身の幸せを願っている。万物は私の味方であるがゆえに、私は何も恐れることが無い」、という世界観が、あなたの内側で出来上がります。この世界観で生きていけば、あなたの生活が、穏やかで、優しさと笑顔に満ちたものになるのは、言うまでもありません。
トランスパーソナル心理学の権威である、ケン・ウィルバーは、人間の精神は9段階の発達を遂げることを指摘しています。9段階とは、次のものです。1.
Sensoriphysical, - 2. Phantasmic-emotional, - 3. Rep-mind,
- 4. Rule/Role, - 5. Formal-reflexive, - 6. Existential,
- 7. Psychic, - 8. Subtle, - 9. Causal。それぞれの段階の詳細は、ここでは割愛させていただきます。ここで、私が強調したいのは、次の点です。大半の成人にとって(地球の全成人の8割程度)、彼らの精神発達は、段階5でとどまります。しかし、瞑想などの適切な訓練を積めば、段階5を超えた精神変容を遂げることが出来るのです。私は、その点を、強調します。
あなたが今後どれだけ精神覚醒し得るかについて、広大な可能性が秘められているのです。あなたは、あなたの精神が現在立っている地点が最終地点である(今の時点で、あなたの精神が完全に成熟している)と誤解しているのです。現在、あなたが体験している精神状態のさらに向うに、とてつもなく大きな、精神の伸びしろがあなたを待っているのです。
あなたが「自分が生まれ変わった」とか「自分の人格が完全に変わった」と思えるほどに、あなたの精神が変容し得ることは、ジーザスや仏陀が出現して以来、何万人もの修行徒が、実際に瞑想を繰り返すことで、確認されてきたことなのです。集合的無意識を説く心理学者のユングは、「あなたが自殺を考えるほどに苦しんでいるのなら、自殺をする必要が無いことを強調したい。なぜなら、あなたは生まれ変われるからだ」と説きます。精神覚醒を目指す何万人もの人達が、実際に上記の9つの段階を経て、悟りの境地に至ることを確認しています。そして、あなたの精神状態が、段階6以上に飛躍するのならば、あなたは、あなたを襲う日々の問題を超越し、心の安寧を保つのです。それが出来ることは、実証されているのです。
スピリチュアルなアプローチは、その有効性が確認されています。ですから、それは、呪術的なアプローチと混同されるべきではありません。しかし、既に指摘した通り、世間で、両者は区別されておらず、両者は共に敬遠されているのです。これが、あなたが、苦しい状態にあるときに、スピリチュアルなアプローチを採用しようという発想にならない理由の一つです。
第三節:スピリチュアリティは難解で分けわからない
続いて、以下において、あなたがスピリチュアルなアプローチを躊躇するもう一つの理由を述べます。
(2) スピリチュアルな教えは、非常に抽象的で難解である。であるがゆえに、その教えを、日々の生活の場に生かすことが難しい。あまつさえ、スピリチュアルな教えは直感や常識に反することすらある。よって、その教えに親近感を覚えない。
例えば、禅の公案(悟りを開くための問答)には、難解なものが多いです。有名な禅の公案に、「片手の拍手はどんな音がするのか?(隻手の音声)」というものがあります。この問いは、一体何を意味するのでしょうか?「そもそも、片手では拍手できないから、音なんてしないだろう?」というのが、あなたの素直な反応ではないでしょうか?そのメッセージが何を意図しているのかさっぱり分からないし、分からないがゆえに、そのメッセージを日常生活に活かしようが無い、というのが、あなたの感想であるはずです。
また、例えば、ジーザスの教えで有名なものの一つに、「右の頬をぶたれたら、左の頬を差しだしなさい」というものがあります。これは、素人目には、とんでもないバカげた教えにしか見えません。このメッセージは、無意味な無抵抗を指示しているように見えます。例えば、あなたの自宅に泥棒が入り込んだら、あなたはその泥棒を追い出そうとするのはなく、「こちらの物置きにも、金品がしまってありますよ。どうぞ、お盗みください。」と、泥棒に告げて、あなたの貴重品を根こそぎ奪ってもらう、そんな自虐的な態度を推奨しているかのようです。
こういった教えに見られるように、霊的な洞察、知恵、教えは、難解なだけでなく、また、その教えが世間の常識に著しく反しているようにさえ思えるのです。ですから、我々の多くは、霊的な教えを咀嚼して、我々の生活の局面・局面にそれを取り入れて、日々をより穏やかで豊かなものにしようという発想になれません。これが、困った時に、スピリチュアルなアプローチを取ろうという気にならない、理由の一つです。
さて、本章の筋からすると、私は、上記の公案やジーザスの教えが難解であることを指摘すれば事足りるのですが、それで終えてしまったのでは、消化不良な感が否めません。我々は、分からないことをそのままにしておくのを不快に思いますので。ですので、以下、少し紙面を割いて、上記の教えについて、それらが何を意味しているのか、その教えをどう活かせるのか、を述べたいと思います。
そもそも、上記の霊的な教えにはどんな意味があり、そして、それをどのように日常生活に生かせばいいのでしょうか?
まずは、禅の公案である「隻手の音声」について、解説します。「片手で拍手する」ということは、拍手という行為を、非二元意識から観察すると、右手も左手もなくなり、音と振動しか感じなくなる、その知覚状態を比喩的に指しているのです。この私の説明そのものは、難解なので、実際の体験を通じて、私が何を言わんとしているのか、考察してみましょう。
目をつぶって、軽く拍手をしてください。そして、拍手をする時に感じる様々な感覚、右手と左手がぶつかって生み出す音、右手の皮膚と左手の皮膚が接触する感覚、右手と左手がお互いを押し合い弾け合うその感覚、等々。それらの感覚に集中し(自分自身がその感覚の中に溶け込むように意識して)、しばらく目をつぶったまま拍手を続けてください。最初の2、3分は、右手と左手がぶつかりあって、音や振動を作り出していることを認識しているのですが、やがて、あたかも両手が無くなったように感じるようになり、自分の前方で、リズミカルに、「パン、パン、パン」という音と振動だけが発生しているように感じるようになります。「隻手の音声」は、このような感性を感じるようにしなさい、ということを指示しているのです。
「隻手の音声」が提示しているのは、非二元意識から世の中を見つめたら、世の中がどのように認識されるだろうか、という問いなのです。非二元意識とは、主体と客体を分離しない精神状態のことです。とある禅の老師は、非二元意識を次のようにまとめます「鐘のなる音が聞こえる時、そこにわたしも鐘もない。あるのは音だけである。」
一つ例をあげて考察しましょう。あなたが極上のコメディーショーを見て、大笑いしている時、あなたは何を認識しているでしょうか?あなたの内側から溢れる愉快な感覚、それだけを感じていますよね。それが非二元意識の状態です。そこにあるのは、愉快な感覚の爆発、その体験しかありません。
これに対して、二元意識(通常の意識状態)とは、主体と客体の関係性の中で、リアリティーを認識しようとする試みです。「私(主体)は、世界や他者(客体)とどのような関わりを持っており、私はその関係性から、何を得ているのだろうか?私は、私が望むものを得るために、世界と適切な接し方をしているだろうか?」ということばかり気にかけるのが、二元意識の状態です。
ですから、二元意識を通じて、コメディーを見ている場合は、「コメディアン(客体:ジョークの発信源)が、何かおかしなことを、私(主体:ジョークの受け手)に言ったから、私が笑い始めた。さて、私にとってそれが面白く感じられるのはなぜだろう?何が笑いのツボにはまったのだろうか?私は十分に笑っているのだろうか?もしかすると、本当は、そのジョークはとても面白いものであるにも関わらず、私がそれを十分理解していないがゆえに、少ししか楽しみを得ていないのではないか?」と思考しながら、コメディーを知覚することになります。
さて、あなたに問いかけますが、非二元意識でコメディーを見るのと、二元意識でコメディーを見るのと、どちらがより楽しめると思いますか?当然前者ですよね?人目もはばからずに、自身の内側に沸き上がった「愉快さ」を、それをそのまま爆発させる、そのほうが、絶対楽しめますよね?
二元意識とは客観的思考であり、私(主体)とコメディー(客体)、その両者がどのような関わり合いを見せているのかを解析しようとする試みです。それは、今、「私は、他の人の目にはどう映っているのだろうか?」と気にかけることに他なりません。そんな風に、人目を気にした瞬間に、爆笑する愉快さが一気に冷めてしまった、ということを、あなたはこれまでにも体験したことがあるはずです。
かなりぶっきらぼうにまとめると、「隻手の音声」とは、実はかなりシンプルなメッセージを提示しているのです。毎日を生きる上で、「私は、XXに役立っているだろうか?」とか、「私は、YYとしての任務を果たしているだろうか?」とか、「私は、目下のZZという状態に、適切に対応しているだろうか?」とか、そんな小難しいことを考えるのをやめてしまえ。それらは、二元的思考であり、あなたが二元的思考をした瞬間に、あなたの生活は、モノトーンで瑞々しさを失ってしまう。そうではなく、局面、局面に、あなたが経験していることを味わいつくせ。そうすれば、あなたの生活は、彩と味わいが深まり、充足感を味わうと。
ここで、注釈します。「隻手の音声」が「任務や責務を果たしているかどうか、考えることをやめろ」と指示しているとき、あなたが「任務を果たさなくていい」と言っているのではありません。あなたが主婦として家事の責務を負っているのなら、食事や掃除をしなくていいと言っているのではありません。食事の準備や掃除をするときに、「私は、家族の期待に応えるレベルで、私の責務を全うしているか?」と考えあぐねるのをやめろ、と指示しているのです。責務を果たす時に、色々と考え事をするな、と言っているのです。
もう一つ例をあげましょう。あなたがテニスをしているとします。その際、二元意識的に状況を解析しながら、テニスをしたら、あなたはテニスを楽しめますか?二元意識的に、テニスを眺めるとは、例えば、「私(主体)は、ボール(客体1)に対して、ラケット(客体2)を正しい角度でヒットしているだろうか?(私‐ボールの関係性、及び、私‐ラケットの関係性の考察)」とぶつぶつ言いながらプレイしたらどうでしょうか?または、「相手(客体)は、私(主体)とテニスをすることを楽しめているだろうか?私のような下手くそとプレイして、かえってストレスを感じていないか?(私‐相手の関係性の考察)」と考えあぐねて、相手の顔色ばかりをうかがい、テニスをしたら、あなたは楽しめるでしょうか?
楽しめないですよね?あなたが、テニスを楽しめている瞬間というのは、ラケットを持っているという意識すら消失している瞬間のはずです。あなたは、ラケットを持っているという感覚が無い。ラケットは、あなたの身体の一部になっており、どうやって、ラケットを振ればいいのか、なんて考える必要がない。来たボールを、何も考えずに打ち返し、そして、ボールをはじき返したときの、「スコーン」という衝撃と爽快さのみを味わっている。その衝撃と爽快さのみを純粋に味わっている瞬間が、非二元意識の状態です。その場、その行為に、深く入り込んでいる時、自分も無ければ、相手もいない、コートもなければ、ボールもなければ、ラケットもない、ただ、その爽快感の中に溶け込んでいるのです。
「隻手の音声」は、とどのつまり、思考に自身を委ねるのではなく、感覚に委ねろとも言っているのであります。それは、無我の境地を推奨しているとも言えます。究極的には、リアリティには、局面、局面での経験しか存在しない。行為者であるあなたも、あなたの行為を受け取る対象も存在しない。「行為者」とは、あなたの想像の産物であり、行為を受け取る「対象」も、想像の産物である。「私がどんな働きかけをして、その対象からどんな反応や報酬が返ってきたのか?」などという、小難しい考えを捨ててしまえ。ただ、体験を楽しもうとすればいいのだ。それが、この公案の核心であります。
そして、実は、「隻手の音声」は、実生活に適用可能であり、かなり役立つものです。一つ例を挙げて解説しましょう。
あなたがあなたの恋人を連れて、山道をハイキングをしたとします。ハイキングを楽しめずに、彼女とぎくしゃくしたり、口論を始めたりする瞬間、そのとき、あなたは二元意識の中にあります。二元意識は、既述した通り、あなた(主体)と彼女(客体1)やハイキングという機会(客体2)の関係性を解析する心の動きです。あなたは、無意識の内に、「私は、彼女を楽しめさせるために、適切にこの機会(ハイキング)を運営しているだろうか?」ということばかりを考えています。
この二元意識下にあるとき、何がしかのトラブルがあると、パニックになり状況を収束できなくなります。例えば、あなたがハイキングにレジャーマットを忘れてしまったがために、草原でゆったりと足を延ばしてランチをとることができずに、代わりに岩場に腰をかけて昼食をとったとします。この時、彼女の表情に苦痛が浮かび上がっているのに気づき(おそらく、彼女はお尻が痛い)、あなたは「僕のせいで、彼女がランチを楽しめていない」と罪の意識に襲われます。あなたは、自分を責めますが、あなた自身を守るために、「そもそも僕はお弁当には反対だったんだ。途中の休憩所で、お蕎麦をもらえばよかった。君がお弁当を持っていきたいなどど言うから、こんな岩場でご飯食べるはめになったんだ」と、彼女も責め始めます。その後、口論になり、ハイキングは戦場に成り下がります。
これに対し、あなたが、非二元意識にあるときは、「経緯」とか、「効率性」とか、「順番の正しさ」なんてことを一切気にかけません。ですから、レジャーマットを忘れたがゆえに、岩場でお弁当を食べなければならなくなっても、あなたはその場でランチを楽しむことに集中できます。あなたは、草原にレジャーマットを広げてランチをするという想定(イメージ、目的)と眼前の状態(現実)を比較して、後悔することをしません。「これは、これでオツなものだな」と、お弁当を楽しむことができます。あなたが、非二元意識にあるのなら、道々に咲き溢れる花々に目を奪われ、小鳥のさえずりを心地よく聞いたり、開けた視界に息をのんだり、瞬間瞬間を楽しむことができるのです。
ハイキングに限らず、あなたの生活のどんな局面でも、あなたが苦しくつらい時というのは、あなたが二元意識にある時なのです。そうではなく、あなたが非二元意識の中に入る、すなわち、瞬間・瞬間の経験の中に自身が溶け込んでいくのを許すのなら、あなたは、生活を楽しめるのです。
実は、そもそも禅の体系全体は非二元意識の重要性を伝えうとしているのであり、数ある公案は、言葉を色々と変えて、それを表現しようとしているだけなのです。この禅の基本筋が分かると、個々の公案は難解なものではなく、その教えを日常生活に活かせるようになります。
では、続いて、ジーザスの「右の頬をぶたれたら、左の頬を差しだしなさい」という教えについて解説します。なお、以下の議論において、この教えを指すときは、「右の頬・左の頬」と短縮して示します。
まず、これは、世間で誤解されているように、実際に暴行を無抵抗に受け続けなさいと、言っているのではありません。「ぶたれてもかまわない」と思えるだけの心情でいなさい、と指示しているのであって、実際に現実として肉体的にぶたれてもかまわないと、示唆しているのではないのです。心情的・内面的な態度について言及しているのです。
では、「ぶたれてもかまわない(=あなたが私をなぐりたいと思うのなら、どうぞ)」という心境で居ることが、なぜ重要なのか?その心境が、どのように役立つのでしょうか?
ジーザスは、「愛」と「許し」の伝道者であります。彼の哲学を一言でまとめると、次のようなものになります。「あなたが苦しみを感じるのは、あなたが許さないからだ。だから、許しさえすれば、あなたは苦しみから解放される。」彼の「右の頬・左の頬」は、許しの重要性を伝えるための喩えであるのです。
あなたが、とある人や、あなた自身や、とある状況を、「許せない」と感じるほどに怒りや悲しさを感じている時、その時、あなたの心はどのように動いているのでしょうか?あなたが、「許せない」と思う時、それは、「あなたが大事だと思っている何かが、何者かによって、粗末に扱われたり、軽んじられたり、壊されたりした」と感じている瞬間だと言えます。
そして、上記の被害者意識にいったん入ると、あなたはそこから抜け出せずに、苦しみ続けます。なぜなら、あなたにとって大切なものを粗末に扱った者(=加害者)は、十分に罰を受けているようには、あなたの目には映らないし、被害者であるあなた(もしくは被害者であるあなたの家族)が十分な償いや補償を受けているようには、思えないのです。あなたは、もやもやした気持ちの中に埋没し、苦しみ続けます。
例をいくつかあげましょう。
ケース1:あなたがファミリーレストランに入り、オーダーした「和風ハンバーグおろしポン酢添え」がなかなか届かず、やっと届いたディッシュが、「ハンバーグデミグラスソース」だったとします。あなたが、「これ、私が頼んだものと違う」と言うと、ウェイターは、「チッ」と舌打ちし、かなりつっけんどんなトーンで、「んじゃ、作り直しますから。今、立て込んでるんで、時間かかりますよ。」と言いました。それは、あたかも、「出された皿を文句言わず食え」と言っているかのようです。あなたは、「なんだ、その、客を客とも思わない態度は。許せない。店長を呼べ」と激怒しました。
ケース2:あなたの小学一年の息子さんが、小学校入学直後の最初の体育の授業で、体操着を忘れてしまったとします。彼がそれに気づいた瞬間、彼はどうしていいか分からなくなり、泣き出してしまいました。泣き出すのも無理はありません。その状況をどう切り盛りしていいかが分からず、パニックになっているのです。担任の男性の先生は、事情も知らずに、とりあえず彼にこう言いました。「おい、何を泣いているんだ?そんなに泣いたら、赤ん坊みたいでみっともないぞ。もう赤ん坊じゃないんだから、泣くんじゃない。」と。あなたの息子さんは、彼自身が赤ん坊扱いされて侮辱されたように感じ、更にひどく泣き出しました。翌日以降、彼は学校に行かなくなりました。母親であるあなたは怒り心頭であります。あなたは、校長に会い、事態を報告し、学校側が誠意ある対応をとることを求めることにしました。
ケース3:あなた方夫婦には、残念ながら子供に恵まれていません。あなた(妻)は、現在38歳であり、妊娠しづらい年齢に入りましたので、子供をあきらめつつあります。そんな状況で、あなたが帰郷すると、あなたの母親は、常に「孫の顔が見たいわ。もういい加減、子供出来てもいいんじゃないの?なんとかならないのかしら?」と、あなたにせっつきます。母親がそう言う時、彼女はとても寂しそうな顔をあなたに見せます。母親を悲しい気持ちにさせていることが分かると、あなた自身もとても悲しい気持ちになり、あなたは、あなた自身を許せなくなります。
上記に色々なパターンを挙げました。ケース1では、大切なもの(=あなた自身)が、レストランで、ウェイターに無碍に扱われて、あなたは彼を許せないと感じています。ケース2では、大切なもの(=あなたの息子)を、彼の涙に誠意の無い対応をし、彼を赤ん坊扱いし、息子さんに心の傷を与えた、担任の先生を許せないと感じています。ケース3では、大切なもの(=あなたの母親)に対して、あなたが苦しみを与えていることが分かり、あなたはあなた自身を許せないと感じています。
そして、既述した通り、この「許せない」という感情に、いったん入り込むと、なかなか抜け出せずに、あなたは苦しみ続けます。例えば、上記のケース1においては、問題のウェイターは、クビになって当然だし、その件について、店長をあなたに土下座させて、あなたのオーダーを作り直すだけでなく、無料にするような対応を店長に求めたいと、あなたは思っています。あなたは、実際にそうならない(ウェイターはクビにならないし、店長は土下座しない)と頭で理解しながらも、心情的にはそれらを求めたいほどに怒っているのです。そして、あなたが心情的に求めるレベルで、ウェイターへの罰と、あなたへの償いは実行されることはありません。そして、あなたは不満の中に居続けるのです。
あなたがそんな怒りの業火にさらされ続けている状況を抜け出すのに、ジーザスは、次のように、あなたに提案するのです。何はともあれ、あなたの大切なものを無碍にした相手を、許そうとしてみよう。あなたが振り上げた拳、その固く結んだ拳を、ゆっくりと力を抜いて、手を開く、そんな感じで脱力するのだと。(筆者注:この「脱力」が鍵です)。あなたの内面の緊張や緊迫が少しでも緩みさえすれば、どちらの側に非があるのか、どちらの側が罰を受けるべきなのか、そういった議論がどうでも良くなり、更に緊張が緩和されていく。こんな感じで是非の二元的議論から脱却しようと、ジーザスはあなたを誘っているのです。
ジーザスは、あなたが苦しんでいるのは、善vs悪、是vs非、これらの二元的世界観に、あなたが落ち込ん出でいるからなのだと指摘します。であれば、その二元的世界観を超越さえすれば、あなたは苦しみを克服する、と提案します。さて、人間の苦しみの原因を二元的世界観に求め、それを超越することが解決策だとすること、この見解を提示しているのはジーザスだけでなく、仏陀も同じ見解を示しています。(筆者注:面白くありませんか?実は、ジーザスも、仏陀も、二元意識を超越しろと提唱しているのであって、両者の教えは、根本において差異はありません。)
既述した3つのケースにおいては、以下に示すように、世界が分断されてしまっています。
ケース1:あなた:善 vs ウェイター:悪
ケース2:あなたの息子:善 vs 担任の先生:悪
ケース3:あなたの母親:善 vs あなた:悪
誰が悪いのか、誰が被害者なのか、この定義付けがしっかり、きっかりすればするほど、あなたは許せない気持ちになり、苦しむ結果になります。そこで、ジーザスは、こう提唱するのです、そもそも、善と悪を分ける線はきっかりとは引けずに、それはあいまいなのだ。善悪の分別があいまいで、かつ、それが恣意的であることが分かれば、自然と、怒りは収まっていく。100%正しい善人は存在しないし、100%誤った悪人もいない。振り上げた拳の力を緩めようとする試みは、善悪の分別があいまいであることに気づくきっかけになる、と。
例えば、ケース1において、ウェイターを許そうとすると、ウェイターも実は被害者であることに気づいたりします。あなたに対する彼の態度や言葉遣いが悪かったのは事実ですが、例えば、その時、レストランのホールではバイトが突然2人欠勤し、ウェイターは混乱状態の中、格闘していたのです。
ケース2においては、担任の先生を許そうとすると、どんな文脈で、彼が発言したのかに目配せする、心の余裕があなたに出来ます。例えば、体育の授業の直前のホームルームで、先生は、子供達にむかって、自立の大切さを語っていたとします。「自分で出来ることは積極的にやろう!」と。そして、あなたの息子さんが泣いているのを見て、担任の先生は、その文脈で、「君が困っている事態にあるのは分かった。それを自分で解決できないかどうか考えてみなさい」ということを伝えたくて、「君は赤ん坊ではない」ということを言おうとしたのでした。先生の実際の言い方(トーン)には確かに問題がありますが、息子さんを侮辱する意図はなかったのです。それが分かれば、彼への怒りが少しは静まります。
ケース3においては、あなたがあなた自身を許そうとすれば、色々なことが分かってきます。あなたの母親が、あなたに対してデリカシーの無いことを言う(「孫はまだか?」)のは、実は、彼女が冷め切った夫婦関係(あなたの父親と母親の関係)にあるために、愛されているという感覚を味わえず、孤独に苦しんでいるのです。その孤独をまぎらわすために、孫の笑顔が見たいと願っているのです。彼女の「孫を見たい」という気持ちは、一部本能的な願いであり、自然な感覚の発露なのですが、それが彼女の孤独感により、肥大化してしまっているのです。彼女の孤独感は、彼女本人の問題(彼女の自尊心の問題)もしくは、彼女と夫の間の問題であり、あなた個人の問題では無いのです。そういった全体像が見えれば見えるほど、彼女に対して同情的になれるだけでなく、あなたの気持ちは軽くなっていきます。
とどのつまり、あなたが、とある対象に「許せない」と怒りに震えている瞬間、その瞬間には、あなたの意識は、「悪事を働いた者をいかに処罰し、被害を受けた私がいかに償われるのか」ということのみに集約化されてしまい、それ以外のことを思考できなくなっているのです。その硬直した意識状態に風穴をあけるために、まずは、何はさておき、相手を許してみようと、ジーザスは提案をするのです。怒りでガチガチに固まった拳を緩めようとするのです、深呼吸もしながら。拳や肩の力が緩むと、あなたの意識もルースになって、精神が流動性を取り戻します。
人間の心とは、元来、凪を打った湖のような静寂な状態にあるはずなのです。それが、心にとって自然な状態です。ですから、拳を緩めることで、緊張を緩和するきっかけさえ、あなたがあなた自身に与えるのなら、あなたの心はごく自然に柔軟性を取り戻していきます。そして、あなたの心が柔軟になれば、あなたの視座や視点が拡散していき、まるで山頂から広大な景色を見渡すかのように、事態の全体像が見えてきます。すると、あなたは、必ずしもあなたが唯一の被害者であるとは言えない、ということが分かってきますので、あなたの怒りは、あなたの実感として、収まっていきます。
ジーザスの「右の頬・左の頬」は、あなたを、善悪の二元的議論を超越できるようにするための誘いなのです。相手を許すということは、相手にある非を無かったことにすることではありません。相手を許すということは、どちらに非があるのかを議論すること自体を止めることです。善悪の分別が、実はあいまいで、それが恣意的であることが分かり得るほどに、あなたの心が柔軟であるのなら、あなたの怒りは自然と収まり、心が穏やかになっていく、とジーザスは指摘しているのです。そんな風に心が柔軟になれるように、「許せ」と言っているのです。「右の頬・左の頬」は、その象徴であります。
象徴は象徴として理解しなければいけません。文字通り理解してはいけません。例えば、日の丸の国旗は、文字通り理解するのであれば、白字に赤い丸があるだけです。それを単なる赤い丸と理解するのなら、的外れですよね?「右の頬・左の頬」を文字通り理解するのなら、それは「無抵抗に殴られ続ければいい」と言っているように理解できます。しかし、その文字通りの理解は的外れで、そこに真意はありません。繰り返しますが、「右の頬・左の頬」は、許そうとすることで、善悪の二元論を超えなさい、と示唆しているのです。
残念ながら、古今東西、どの宗教においても、どの哲学においても、どの賢人や偉人においても、ほぼ全ての霊的な教えは、「象徴」として提示されています。それは、なぜでしょうか?
我々は、通常、二元意識の中にあります。これを、海の中に住む魚の心境だと想像してください。これに対し、精神覚醒者は、非二元意識を会得しています。これを、空を飛ぶ鳥の心境だと想像してください。「空を飛ぶということがどれだけ素晴らしい体験なのか」ということを、鳥が魚に伝えるには、どのような言葉で伝えたらいいでしょうか?海の世界の言語に置き換えて伝えるしかないですよね?例えば、空を飛ぶ爽快感というのは、喩えれば、「海流に乗って泳いでいるときに、自分がそれほど力を出さなくても、自然とスイーっと加速していく、そんな感じだ」という風に。
禅の公案は、非二元意識を説明するのに、「片手の拍手」という喩えを取り上げているのであり、ジーザスは、非二元意識を説明するのに、「頬をぶたれるのを許せ」という喩えを取り上げているのです。ただ、残念なことに、我々にとっては、その象徴(喩え)が、何を指し示そうとしているのかが、分かりづらいのです。
非二元意識を会得している者にとっては、ジーザスや仏陀が、どんな喩えを使って、非二元意識の何を説明しようとしているのかが、手に取るように分かります。僭越ながら、私もその説明が出来る者の一人であります。上記において、禅の公案「隻手の音声」と、ジーザスの教え「右の頬・左の頬」の解説を、出来るだけ丁寧に分かりやすくしたつもりなのですが、いかがでしたでしょうか?
ここで、本章の議論をまとめます。我々は、日常生活において何がしかの苦しみを味わっているとき、それをスピリチュアルなアプローチにより克服しようという発想に、なかなかなりません。その理由として、私は二点あげました。まず、一点目、精神覚醒を目指すスピリチュアルなアプローチは、祈りを軸に添える呪術的なアプローチと混同されており、祈りを恐喝の道具にする不健全な運営が存在するために、スピリチュアルなアプローチも呪術的なアプローチと同様に、危険だと勘違いされていること。二点目、霊的な教えとは、象徴(喩え)の形式を取らざるを得ず、その象徴が何を伝えようとしているのか、極めて難解であること。難解であるがゆえに、多くの人はそれを敬遠すること。
霊的な教えが敬遠される理由を二つ指摘するのを通じて、本章においては、霊的な教えがどのように役立ちえるのかについても少し議論いたしました。次章以降、その議論を深めていきます。
第二章へ
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