最新エッセー:たかが親されど親(超大作!)

親子関係に苦しむ全ての人にこのエッセーを捧げます。 親からの拒絶や親との死別で苦しんでいる人に向けて その痛みをどう乗り越えるのか、を議論します。下記タイトルをクリックしてください。
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エッセイ56 (2018年4月30日著)

たかが親、されど親

魂の観点から見た、親子関係の考察

親を失う痛みを乗り越えるために

著者:加藤優


第四章:過剰反応の根本原因

前章において、過剰反応の具体例として、私自身の経験を取り上げました。各人が、なぜ過剰反応を起こすのかは、基本的には、各人がどのような親子関係を幼少期に過ごしてきたかによります。あなたが子供であった時に、子供としてのあなたの精神に、どのように「親」が刻み込まれたのか(平たく言えば、子供の目から見て親がどう映ったのか)、それが過剰反応の原因になるのです。過剰反応の原因は、各人各様であります。ですから、親から暴力を受けて育った人が、私と同じような過剰反応を、必ずしも経験するとは限りません。

とはいえ、過剰反応を起こしやすくする素地は、我々の内側に、共通に潜んでいます。本章はその共通要因を指摘するものです。

個々人は、それぞれユニークな家庭環境を通じて成長しますが、我々の幼少期の体験には、それがしかの共通項があります。特に肉体的な体験において。例えば、我々は、産まれてから3か月ぐらいは、首が座らず、自分の意志で首を動かすことができません。首が座るまでに要する日数には個人差がありますが、首が座らない時期を過ごす、その体験は、万人にとって共通です。また、移動能力の発達においても、まず、四つん這いでの移動(いわゆるハイハイ)から始めて、その後二足歩行に至るその推移は、皆に共通した体験であります。こういった共通の体験から、何がしかの共通の世界観が出来上がったとしても不思議ではありません。

我々の幼少期において、共通な体験から、共通の感慨を得て、共通の世界観が創生されています。私は、これまでの臨床体験を通じて、その共通の世界観のうち幾つかのものが、親の死を耐えがたいものにしていることを見つけ出しました。親の死への過剰反応の下地、共通な根本原因と呼べるものについて、代表的なものを、以下に、三つあげます。

一つ、幼少期より親へ依存する感覚が精神深くに根付いており、その感覚が成人後も生きていること。親を失えば、依存先を失うことになり、それが耐えがたく、よって、親の死について過剰反応が起きる。二つ、親を幸せにすることで、親と「快」を共有したいという欲求が、精神深くに根付いており、その欲求が成人後も生きていること。親を失えば、自分が幸せになれないように感じられてしまい、よって、過剰反応がおきること。三つ、幼少期に親から無視されたり拒絶された痛みを、親子関係をやり直すことで解消しようと、(無意識のうちに)願っていること。親を失うことは、親子関係をやり直す機会の喪失を意味し、それは、心に空いた穴が、そのまま維持されることを意味する。よって、親を失うことは耐えがたい。本章で、それぞれの点について詳しく解説していきます。

この三つの根本原因について議論を深める前に、前提として次の点をまずご理解ください。我々は、乳幼児期に身体感覚を通じて得た知覚を元に、世界観を築きます。このとき得た世界観は、観念的なものでなく、感覚的なものです。

0歳から3歳ぐらいの子供にとって、「世界」とは、様々な「感覚」が折り合わさったものなのです。子供は、世界を、「固いもの」「柔らかいもの」「かじれるもの」「かじられないもの」「しっとりしているもの」「乾いているもの」そういった千差万別の感覚が紡ぎ合わされたものとして、理解しています。そして、その感覚的世界が、世界認識の「土台」になります。そして、その「土台」は、あなたが成人して、大人になっても、「土台」として生き続けます。

例えば、我々は、乳幼児期に、体感を通じて、空間認識をし始めます。重力があるために、「上」と「下」という方向感覚を得ます。この方向感覚は、理性の発達とは全く関係なく、我々の中で生き続けます。上下の空間認識は、例えば、あなた(成人)があなたの赤ん坊を抱きかかえる時に、無意識の内に発動されます。あなた(成人)は、特別な意識を払うこともなく、片手を赤ん坊のおしりの下にまわし、もう片方の腕を赤ん坊の背中の肩甲骨のあたりにそえます。

そのように、あなた(成人)が、赤ん坊を下に落とすことなくしっかり抱きとめることができるのは、あなた(成人)が上下の空間認識を適正に出来るからです。空間認識がしっかりできていないのであれば、すなわち、どの方向が「上」で、どの方向が「下」なのか分からなければ、あなた(成人)は、あなたの両方の手を赤ん坊の頭の上に乗せたりして、赤ん坊を床に落としてしまうことでしょう。この空間認識は、あなたの脳が正常に機能し続ける限り、有効であり続けます。

我々は、乳幼児期に、親子関係についても、感覚的な世界観を築きあげます。例えば、母親のことを、自分を柔らかく抱擁してくれる存在、すなわち「柔らかく温かいもの」として認識したり、自分の空腹を満たしてくれる存在、すなわち「ミルクの味がするもの」としても認識します。

我々が成長し、親を観念的に認識できるようになると、幼少期に得た感覚的な世界観を「土台」として、理知による親の認識を、まるで、その「土台」の上の建物のように、積み上げていきます。例えば、母親を「柔らかく温かいもの」と感覚的に理解しているのに加えて、「私の行く末を色々心配して、あれこれ私に口うるさく注意してくるもの」という理性的な理解を追加していきます。

我々は、成長と共に、感覚的な世界観の上に観念的な世界観を積み上げていき、世界の解釈を多層的に行うようになるのです。我々が健全に成長した場合は、感覚的な世界観と観念的な世界観のバランスがとれ、世界を的確に認識し、戸惑うことなく、自分自身と世界をつなぎ合わせることが出来るようになります。

例えば、健全に成長した人は、自分の母親を、「自分の保護者」として認識するのであり、「ミルクの味がするもの(母乳の提供者)」としては、見たりはしません。

母親を「ミルクの味のするもの」として見る見方(感覚的な母親の把握)は、あなたの成人後、消滅する分けではありません。あなたが健全な成長を遂げたのであれば、その感覚的な母親像は、潜在意識の中で休眠したような状態になります。それは休眠状態でありますので、死んだわけではなく、あなたの中で生きているのです。生きているのですが、それがあなたを揺るがすことはないのです。

あなた(成人)は、今、この瞬間において、母親を感覚的に把握し、「ああ、俺は、今も母親のおっぱいを吸いたいのだ」とはっきり明確に感じることはありません。しかし、あなた(成人)は、その潜在意識で休眠した欲求を、実は、なんとなく感じているのです。あなた(成人)は、それを、「何となく母親と近づきたい」という漠然とした欲求として、認識します。

その感覚的な母親像に積み上げる形で、あなたの成長に伴い、母親を「保護者」として見る見方(理性的な母親の把握)が構築され、やがてそれが主流となります。片や、感覚的な母親像は、「母親に近づきたい(もっと打ち解けあいたい)」という漠然とした意欲に帰結し、理性的な母親像は、保護者としての母親から距離を取りたい、すなわち、「遠ざかりたい(自分自身の自立を保ちたい)」という意識に帰結します。両者のバランスが取れている限り、近づきたいという「力」と遠ざかりたいという「力」がバランス取れている限り、あなたは適切な形で母親と接することが出来るのです。

しかし、フロイト学派によると、問題になるのは、乳幼児期の感覚的欲求が満たされることなく、成長した人です。感覚的欲求不満は、それが実際に満たされるまで、くすぶり続けます。例えば、空腹感は、食事をして満腹になるまで、継続して感じられますよね?空腹であり続ける限り、あなたは食料を求め続けます。

それと同じように、乳幼児期にあなたが母親によって満たされなかった(例:十分な愛情を注がれなかった)のであれば、成人しても、あなたはそれを感覚的に求め続け、無意識の内に、母親があなたにそれを提供してくれることを願い続けるのです。

感覚的な母親像(母親に近づきたいという意識)が潜在意識で休眠状態になるのではなく、依然として、活発であり続けます。そのため、感覚的な母親像と理性的な母親像とでバランスを失し、健康な形で母親と関係を持つことが難しくなります。

例えば、母乳を与えられることなく、哺乳瓶で粉ミルクばかりを与えられると、「口唇期」の欲求(口を通じて外界と接触したいという欲求−キスをしたいという欲求の原形)が満たされることなく成長してしまいます。すると、「(本物の)乳首を吸いたい」という欲求が内面でくすぶり続けますので、その欲求の矛先として、母親を「母乳の提供者」として見続けようとしてしまうのです。

乳幼児期に口唇の欲求が満たされなかった人は、成人してから、幼少期を振り返り、当時の口唇期の不満足さを、客観的に思い返すことはありません。当時、満足だったか、不満足だったのか、それは記憶の彼方です。また、「その欲求が満たされないがゆえに、母親を『母乳の提供者』として見ている」と、私が指摘するとき、それは、その本人(成人)が、今、この瞬間に、実際に、母親の胸元を露わにして、母親の乳首に吸い付くことを、行動として起こそうとしている、と言っているわけではありません。

私が言っているのは、赤ん坊の時に体験した母親の乳首に引き寄せられる「力」、その感覚が休眠状態にならずに、その感覚だけ(映像的記憶や理論的説明無しに)が、今も活発に生きている状態を言っているのです。

母親の乳首に引き付けられる「力」の「感覚」だけが残った状態を、成人後のあなたは、何がしかの口の物足りなさとして自覚します。「何か口に含みたいのだけど、何を含もうとしているのかは、よく分からない」といった具合に、あやふやに、その物足りない状態を把握します。この状態にある人は、知らず知らずのうちに、爪を噛んだり、タバコを口にくわえたり、ガムをかんだり、キャンディーをなめたりすることで口唇に刺激を求めるようになります。

本来であれば、その感覚的母親像(「母親」=「乳首を口に含んだ時に感じられる感覚」)は、潜在意識の中で休眠状態になるはずのものなのですが、乳幼児期に授乳の体験が不十分であると、その感覚的うずき(乳首を吸いたいという欲求)が、授乳期を過ぎ、離乳期に入っても、くすぶり続けるのです。結果、母親を、「口唇の物足りなさ」(何かをくわえたいという感覚的欲求)を満たしてくれる人として、無意識の内にそれを期待し続けるようになるのです、成人した後も。

繰り返しますが、このとき、本人(成人)は、「私が小さかった時に、母親の乳首の体験が足りなかったのだ」と理性的に自覚はしていません。しかし、あなた(成人)は、えも言われない、物足りなさ、満ち足りなさ、すなわち、漠然とした飢餓感を感じてはいます。

それが何の飢餓感なのか、なぜそんな飢餓感を感じているかは、理解していません。しかし、あなたは、その飢餓感を母親に埋めて欲しいとは、無意識の内に願ってしまうのです。どんなにそれをあなたが願っても、その飢餓感が彼女によって満たされることはありません。そして、最終的には、母親が鬱憤を自分に与えているかのように、知らず知らずのうち感じられてしまい、彼女に対してフラストレーションを抱くようになるのです。

口唇期の欲求が満たされずに成人した人、特に男性は、母親と接することにストレスを感じるようになります。自分の満たされない欲求を満たしてくれる役割りを母親に期待しているにも関わらず、彼女がそれを満たしてくれることが無いからです。

そして、そういった男性は、母親との関係だけでなく、女性全般と接するのが不得手になります。やたら女性に甘える(パートナーに母親の役割りを期待する、いわゆる、マザコン)ようになったり、やたら女性を管理する(自分のフラストレーションをぶつける対象にする)ようになったりします。

ここで強調したいのは、あなたが0歳から5歳ぐらいの間に築き上げられた、感覚的世界観は、あなたの精神の「土台」として、あなたの成人後も生き続けることです。そして、もし、乳幼児期にあなたの基本的な感覚上の欲求が満たされなかった場合、その「土台」が不適切に肥大化・強化・固定化されて、顕在意識(理性)と潜在意識(感覚的欲求)のバランスがとれなくなります。それが、成人後のあなたの精神状態に大きな影響を与るのです。

顕在意識(理性)と潜在意識(感覚的欲求)のバランスがとれなくなると、それが副次的に、親との死別に対して、我々に過剰反応を起こさせるようになります。以下に、それを解説していきます。


第一節:過剰反応の根本原因その1:親への依存の感覚的継続

まずは、あなた自身が赤ん坊であったころを想像してください。生後2か月ぐらいで、まだ首も座っていなかった頃を想像してください。その頃の記憶はもう無いのはもちろんです。しかし、あなたが今、産まれて間もない赤ん坊だとしたら、あなたが何を感じるのか想像してみて欲しいのです。

おそらく気づくのは不自由さと、親への依存であることでしょう。あなた(赤ん坊)は、一人では何もできません。あなた(赤ん坊)は全く自分では動けません。首が座っていないので、顔をどこかの方向に向けることすらできない。もちろん、寝返りさえ打てない。親の助けを借りないと、寝ている身体の姿勢を変えることも出来ない。服やおむつを自分で代えることも出来ない。お腹がへっても、自分から母親の乳首をくわえることができない。母親が、彼女の乳首を、あなた(赤ん坊)の口に持ってきてくれないと、あなた(赤ん坊)は母乳を飲むことができない。あなたは、自力で母乳が飲めないのです。あなた(赤ん坊)は、あなた(赤ん坊)の生存に関わる全てのことを、親に依存しています。この時、あなた(赤ん坊)は何を感じるでしょうか?それを想像してみてください。

赤ん坊は自分の置かれている状況を客観視する能力をまだもっていませんから、その観点での恐怖はまだ抱いていません。自身が親に完全に依存していることを、観念的な恐怖としては認識していません。しかし、自身が親に依存していることは、感覚的に感じているはずです。赤ん坊は、「しっかりと、しがみつかなければいけない対象」といった具合に、親を感じ、その感覚によって親を理解していたはずです。

依存を感覚的に感じるとは、喩えれば、次の状態です。あなたが遊園地のジェットコースターに乗っているとします。急下降して身体が浮くようになった瞬間、あなたは、安全バーをぎゅうっと握って、「ぎゃあー!」と叫びだします。

このとき、あなたは、理性的に「安全バーさえ握っていれば、コースターから放り出されて死ぬようなことは無い」と理解したから、安全バーを握っているのではありません。あなたの本能が、あなたの身体を少しでも固定する何かを求めているのであり、その衝動が、知らず知らずの内に、安全バーを握りしめる力として具現化されたのです。あなたの内側から自然と沸き起こった、安全バーを握りしめようとする力、それをあなたが感じることが、上記の「親への依存を感覚的に感じる」ということに相当します。

ジェットコースターで本能的に安全バーをぎゅうっと握りしめようとしていたように、あなた(赤ん坊)は、本能的に、親を握りしめようという力を抱いていたのです。そのように感覚的に親を頼ろうとしていた、その依存の衝動を、それがしか、赤ん坊であるあなたは感じていたはずです。あなた(赤ん坊)は、握りしめる力の矛先として、親を感覚的に認識していました。

繰り返しますが、赤ん坊は、客観的に「親が私に施しをしてくれないと、私は生きていけない」と理解していたから、親に頼ろうとしていたわけではありません。内側からごく自然に、本能的に、親に頼ろうとする「力」が湧いてくるのです。赤ん坊の内側に、「頼ろうとする衝動」があります。それは、生き残るための本能であるとも言えます。その証拠に、頼れる人が傍にいないことが分かると、赤ん坊は恐怖を感じて泣きだすのです。

本能的な、親を握りしめようとする「力」、それが赤ん坊であるあなたに、どれだけの心理的な影響力があり得たのか、少し、想像してみて欲しいのです。

あなたが赤ん坊のころ、あなたの生存の全てを、親に依存していました。それが、どれだけ、赤ん坊にとって驚異的なのか、ご理解いただけますか?赤ん坊は理性的な恐怖は感じていません。しかし、本能的に自分が無力であることを感じていたはずです。自身の生命維持に必要なものを、自身の力では、全く手に入れられないのです。赤ん坊は、命に必要な母乳を飲むことすら、親の助け無しにはかなわないのです。親がいないのなら、自分が危険な状態に陥ることを、本能的に察知していたはずです。であるがゆえに、赤ん坊の内面では、親を自分のたもとに引き寄せようとする、親にぎゅうっとしがみつこうとする「力」で満ちていました。

ですから、この「力」、すなわち「依存の必要性」は、ものすごいインパクトをもって、赤ん坊の精神に刻印され、その刻印は、我々が成人後も生き続けるのです。

私がこのことに気づいたのは、親との関係で苦しむ複数のクライアント達にセッションを提供する過程を通じてです。彼らのエネルギーの状態を見ると、親への依存心が、エネルギーの塊となって、第二チャクラや第三チャクラに貯蔵されているのが分かります。そのエネルギーの塊の起源を調べてみると、生後間もない頃に既に生成されていたのが分かります。

そして、そのエネルギーの塊が今も残り、感覚的な依存心として、それが活動しているがゆえに、彼らは親からそっけない言葉をかけられると必要以上に傷ついたりします。依存心が強いということは、愛される期待が高いことを意味します。愛される期待をしている時に、親から冷たい言葉をかけられれば、必要以上にショックを感じて苦しむことになるわけです。

健全な精神成長を遂げることが出来た人は、それがしか、この「依存の感覚」を乗り越えることができます。しかし、後述する通り、健全な精神成長を遂げられることは極めて稀であり、大半の人は、この「依存の感覚」を超越することが出来ません。

既述した通り、問題になるのは、あなたが乳幼児期に、あなたの感覚的欲求が満たされ無かった場合です。本節で問題視するのは、あなたが乳幼児期に、安全についての欲求が満たされていたかどうかです。

親が離婚したり、親が共働きであるために親が家で不在になる時間が長かったり、乳児である時期から保育所に預けられたり、親が自分のことばかり気にかける人で子供に信愛の眼差しを向けられないでいたりすると、あなた(乳幼児)は、自身が危険にさらされているように感じられてしまい、安全の欲求が満たされることなく、成長していきます。

乳幼児期の安全の欲求が満たされなければ、あなたは、無意識の内にそれを求め続けます。成長して、理性的にいくら自分が親から独立していることを理解していっても、あなたは、無意識の内に、親を自分の存続を保障してくれる存在として期待し続けるのです。そして、成人後も、無意識のうちに、親を「しっかりと、しがみつかなければいけない対象」として、感じてしまうのです。

こうなると、あなたと親の関係は対立で満ちたものになります。なぜなら、あなたは無意識のうちに、親があなたを安心させることを期待しているのですが、あなたの親は、これっぽっちも、あなたの欲求を満たしてくれることがないからです。

また、もう一つ問題になるのは、あなたの成長期に、親があなたの自立をどれだけ促してくれたか、にあります。例えば、あなたの親が、いつもあなたを罵倒したり、あなたが何か新しいことに挑戦するのを妨げたり、あなたがやろうとすることに、ことことぐ反対したりしたのであれば、あなたの自尊心が健全に育まれることはありません。

これらの親からのネガティヴなメッセージは、煎じ詰めれば、「お前は、不完全で、ダメな存在なんだ」と、あなたの価値を否定するものなのです。そういったメッセージを受け続ければ、いつからしかか、あなたは自分自身をダメな人間だと思うようになり、結果、あなたの親への「依存の感覚」(親を自分のたもとに引き付けたいという「力」=親が自分を認めてくれているという「願望」)が強化されることになります。

ここで、一つ注釈しておきます。親から非難され続けると、潜在意識で「依存の感覚」が強化されるのですが、非難され続けること自体は耐えがたく、親への憤りも感じますので、上記のように、親から批判され続け、親と対立しながら育った人の中には、いち早く、親元を離れて、自立した生活を送ろうとする人もいます。「依存の感覚」がありながら、親から離れる行動をとれるのはなぜなのでしょうか?

例えば、高卒後、あなたの親は、あなたに親元から大学に通うことを望みますが、あなたは親の顔を見たくすらないので、高卒後、大学に行かずに就職し、一人暮らしを始めます。親の非難にさらされなくなったあなたは、自由を謳歌しはじめます。さて、この結果、あなたは本当の意味で、深い、充足感を得ることができたのでしょうか?

あなたは、日々の生活を楽しみます。職場の友人をアパートの自室に呼んで夜通しでお酒を飲んだりして。しかし、あなたの内側は、なんとなく、そこはかなく、満たされない気がするのです。それは、何故かというと、あなたがどんなに日々を楽しんでも、あなたの内面の、「私は、親ですらその価値を認めてくれない、ダメな人間なんだ」という嘆きが解消されていないからなのです。

あなたがどれだけ、物理的に自立を勝ち得たとしても、友人との付き合いや、恋人との付き合いを通じて、あなたが彼らからどんなに愛されても、「私の親は私を認めてくれない」という心の穴が埋められることは無いのです。

行動面で、親からの独立を勝ち得ても、その反面、感情面での「依存の必要性」は残ったままなのです。あなたが、親への怒りや不満から、物理的に独立します。しかし、親から認めてもらう、心情的なニーズは満たされていないのです。

ですから、ここで、ご理解いただきたいのは、あなたが親に反抗的な「行動」をとったとしても、あなたの内面での感覚的な飢餓感、すなわち「依存の感覚」(親に接近し、親から受け入れられ、深く安心した状態を求める欲求、あなたが子供の時に抱いていた、その感覚)はうずき続けるのです。

「依存の感覚」(親に接近しようという「力」)が内面で存在しながら、親への怒りから、あなたは親から離れて、独立しようとする。二つの相反する精神力学的な力が、共存する状態というのは、あり得るのです。

「親に受け入れられていない」という心の穴は、あなたがどれだけ、友人や恋人から賞賛を得ても、埋まることはありません。むしろ、あなたが自立した生活の中で、友人関係や恋人関係の中に救いを求めれば求めるほど、あなたの内側の「私は認められていない」という飢餓感は増幅され、潜在意識下での親を必要とする「力」は、あなたの自立度合いに関わらず、維持されてしまうのです。

そして、以下、本章第三節でも指摘しますが、乳幼児期に、親によって安全の欲求が完全に満たされて成人出来た人は、この世にいません。どんなに子供を愛している親であっても、一日24時間、子供に安心感を与え続けることは出来ません。仕事が忙しかったり、親自身の精神状態が不安定であったり、様々な理由から、親は子供を突き放し、子供に不安感を与える瞬間があるのです。

また、幼少期に、親から完全に健全な形で元気づけられた子供は、存在しません。どんなにポジティブ思考な親であっても、時に、自分の子供を罵倒し、「だから、お前はダメなんだ!」というメッセージを子供になげかけ、「親=正、子=誤」という観念的ヒエラルキーを守ろうとします。子供を自分の下位に従えることで、安心しようとする親は存在するのです。それが、子供の健全な自立を疎外し、結果、「依存の感覚」を強化します。

程度の差こそあれ、我々のほとんどの者は、十分な安全を噛みしめることなく、乳幼児期を過ごしてきた、と言っても過言ではありません。程度の差こそあれ、我々のほとんどの者は、否定的なメッセージを親から投げかけられ、自尊心が十分に育成されることが無かった、と言っても過言ではありません。

本来であれば、上記の「依存の感覚」は、成長に伴い、潜在意識で休眠状態になってしかるべきものなのです。しかし、乳幼児期の安全の欲求が親から満たされないと、我々は、それを、成人後も求め続け、我々は、無意識の内に、親が我々自身の安全を保障してくれることを期待してしまうのです。

このとき、感覚的な親の理解(「依存の感覚」)が肥大化し固定化されてしまうがゆえに、あなたがどれだけ、理性的に、親無しでも生きていることを理解しても(理性的な親の理解)、両者のバランスが失われ、あなたの内面は、親を必要とする「力」に支配されてしまうのです。頭では、親を必要としないと理解していても、感覚的には、今、この瞬間にも、あなたは親を必要としているのです。

とある「感覚」が、理性的な理解に反して、支配的に継続される事態というのは、例をあげるに枚挙にいとまがありませんので、ご理解いただけるはずです。

例えば、ひどい交通事故にあった人が、理性的には、今後も同じような事故に遭う可能性は極めて低いことを理解していながら、運転が怖くてできなくなるような状態です。理性的には、自分が車の中でも安全であることを理解していながら、感覚的には、今、この瞬間にも事故は起きていて、ガシャッ!という金属音と共に、自分の脚が潰され、ひどい痛みを感じているような気がするのです。その痛みを、今、この瞬間にも味わっている。その恐怖を今この瞬間に、臨場感たっぷりに感じているからこそ、車の運転が出来ないのです。

それと同様に、あなたが観念的な理解としては、親に依存していなくても、感覚的には、あたかもあなたが依然として赤ん坊であるがのごとく、あなたの内側の無意識の領域には、親にしがみつこうという「力」で満ちているのです。そして、その「力」は、乳幼児期に安全の欲求が満たされていなかったのであれば、著しく増強されてしまうのです。

我々がどれだけ我々自身を、独立した成人だと見做しているとしても、感覚的な親への依存は、我々の内側に存続し続けます。ですから、親を失ったのであれば、まるで、安全バーの無いジェットコースターに乗るがごとく、強い不安を我々は感じるのです。

あなたが何歳になったのだとしても、あなたが10歳であろうが、60歳であろうが、あなたの潜在意識(感覚的世界観)にとっては、あなたの親は、あなたの安全を保障する存在なのです。ですから、親を失うことが、あなたには耐えがたい痛みと苦しみを産み出すのです。


第二節:過剰反応の根本原因その2:親との感覚の共有と生きる目的

再び、あなた自身が赤ん坊であることを想像してみてください。赤ん坊であるあなたが、親との気持ちの交流において、あなたは何を気づくことでしょうか?

おそらく、あなた(赤ん坊)は、自分の気持ちが、親の気持ちと、リンクしている、もしくは同調していることに気づくはずです。例えば、あなた(赤ん坊)が玩具のガラガラを手にして、それを振った時の音が楽しくて、あなた(赤ん坊)は、「ダー!」と言いながら笑いだしました。すると、それを見ていたあなたの親は満面の笑みを浮かべながら、「かわいい」と言いながら、嬉しさを噛みしめます。そうです、あなた(赤ん坊)が嬉しい時に、あなたの親も嬉しくなる、あなた(赤ん坊)はそんな瞬間を、無数に体験したはずです。

また、逆に、例えば、あなた(赤ん坊)が便意をもよおしているのにもかかわず、便をひねり出すことが出来ずに、お腹が張って苦しんでいるとします。あなた(赤ん坊)は大きな声で泣き出します。それを見た、あなたの親は、あなた(赤ん坊)がなぜ苦しんでいるのかを解明しようとしますが、分かりません。おむつが濡れているわけでもないし、ミルクはあげたばかりだし、昼寝もさせたばかり。あなた(赤ん坊)が何で泣いているかが分からず、どうしたらいいか分からなくなり、困惑した表情を見せます。あなたが(赤ん坊)つらいと、あなたの親もつらくなる。あなた(赤ん坊)が泣いていると、あなたの親も泣きそうな表情を見せる。そんな瞬間も、無数に体験したはずです。

あなた(赤ん坊)が嬉しいと、親も嬉しい。あなた(赤ん坊)が苦しいと、親も苦しい。あなた(赤ん坊)がご機嫌だと、親もご機嫌。あなた(赤ん坊)がいらついていると、親もいらついている。あなた(赤ん坊)が安らいでいると、親も安らいでいる。あなた(赤ん坊)の気持ちやムードが、親の気持ちやムードと同調している瞬間、そんな瞬間を、あなたが小さな赤ん坊であった時に、何万回と経験したのです。

このとき、あなた(赤ん坊)は、感覚的に、親を鏡のような存在として認識するはずです。親は、自分(あなた)の気持ちを映す鏡のように感じられるのです。「親が嬉しいのなら、その瞬間に、私(あなた)も嬉しいのだ」という理解が芽生えます。親と感情がリンクしている瞬間、それは、同じ気持ち(同じ波動)が、あなた(赤ん坊)の内側に行き渡り、親の内側にも行き渡る瞬間であります。そこで感じられるのは、甘美なる一体感です。そして、あなた(赤ん坊)は、無意識の内に、気持ちを親と共有出来ている状態を望むようになります。

そして、親との感情のリンクを無数に味わっていくと、あなたがあなたの「快」を味わうのには、あなたの親も「快」の状態に居ることが必要であるかのように、感じるようになるのです。

喩えれば、あなたが和食派で、常にご飯とみそ汁を毎回の食事でとっているとします。とある食事時に、ご飯とおかずのみが卓上に並び、みそ汁が出なかったら、あなたは何を感じますか?なんか、物足りなく感じて、みそ汁が欲しいと思いますよね?それと同じように、あなたが赤ん坊であった時に、あなたは、あなたの「快」と親の「快」を同時にセットとして体験してきたために、両者が同時に発生している状態を望むようになるのです。そして、ごく自然に、あなたの内側で、両者が同時発生するために、親を喜ばしたいという動機すら芽生えます。

やがて、あなたは、脳と意識が成長して、世間の規範を学びだします。そして、子供が親を喜ばすために努力することが、「親孝行」と呼ばれて、それが徳が高いこととして、世間で賞賛されていることを学ぶと、上記の動機が強化されます。あなたは、感覚的に親を喜ばしたいという力を内側に抱えている上に、それが「いいこと」だと社会でみなされていることを知り、自分がやりたいと感じていることが正しいことであることを理解し、その動機の力が増幅されるのです。

しかし、それとは逆に、あなたの理性が発達すると、あなたが親とは違う独した個人であることも理解しはじめます。あなたと親は、価値観も違えば、生きる目的も違い、何に幸せを感じるかも違うのです。

例えば、あなたの親がリスクを極端にきらい、毎月の収入をこつこつ貯蓄するタイプの人間だったとします。それに対し、あなた(成人)はリスクをとるのが好きで、俗に言う「宵越しの金は持たない」タイプの人間だとします。12月のボーナスが高額であったこともあり、あなた(成人)は年末ジャンボ宝くじを300枚購入し、9万円投資しました。そして、喜色満面に、親にそのくじの束を見せたら、親は当惑して、あなた(成人)を批判します。「そんな夢を見るだけのために、何万円も使いやがって、お前はバカか」と。そんな体験を重ねる内に、あなたは、成長と共に、親が同じことを喜んではくれないことを、理解していくのです。

また、あなたは、成長と共に、あなたの努力の限界も学んでいきます。あなたがいくら親を喜ばそうと親のためにがんばったところで、親を満足させられるとは限らないのです。例えば、あなた(成人)が、別居している親のために、頻繁に帰郷しても、あなたの親があなたとの同居を望んでいるのなら、あなたがいくら帰郷の努力を重ねても、親が満足することが無いことを理解します。

片や、あなたは、潜在意識において、あなたの親を感覚的に認識しています。このとき、あなたは、無意識のうちに、親と同じ気持ちを共有したいと願っているのです。あなたの無意識の領域には、親に近づきたいという「力」で満ちています。

片や、あなたの理性は、親と自分は別の存在であるがゆえに、幸せを共有できないこともあり得ると理解します。そして、あなたが親を幸せにするために努力したところで、その努力が無効であり得ることも理解し始めます。この顕在意識の領域では、お互いの独立性を尊重しあいたい、お互いに距離を取りたいという「意志」で満ちています。

あなたの精神が健全に成長を遂げたのであれば、両者;感覚的な親の認識(親に近づこうとする「力」)と理性的な親の認識(親から離れようとする「意志」)のバランスが保たれ、成人後も、あなたは健全に親と接することができます。

しかし、問題になるのは、既に指摘した通り、乳幼児期にあなたの感覚的願望が満たされなかった時です。特に、ここでは、乳幼児期に、あなた(乳幼児)が親と同じ気持ちを共有したいという欲求を満たされなかったことを問題視します。

同じ気持ちを共有する欲求が満たされなかった瞬間とは、例えば、次のような瞬間です。あなた(3歳)が、自由帳にウサギの絵をかいたら、あなたの主観としては、その絵のウサギが生きているように感じられました。あなたは、「お父さん、すごいよ、このウサギねえ、ぴょんぴょん跳ねるんだよ」と言いながら、父親にその絵を見せて、ウサギが生きているという感動を、彼と共有しようとします。

しかし、彼にとっては、それは絵のウサギでしかありません。彼は、明日の商談のことばかり考えていて、心そこにあらずでしたので、「あー、ハイハイ、良かったね」とどうでも良い返事をして、全く関心を示しません。そのとき、ウサギの躍動感を彼に分かってもらえず、あなたは失意を感じます。これが、気持ちを共有できなかった瞬間の例です。

我々は、乳幼児期に、この気持ちを共有する欲求が、それがしかのレベルで満たされる必要があるのです。満たされないと、潜在意識が、「親とすら、気持ちを共有できないのなら、私(あなた)は誰とも繋がれない、とても孤独な存在で、他の人と気持ちを通わすことなど望むらくもない。誰も私を分かってくれない。」と思い込むようになります。すると、あなたの精神は、精神それ自体をシャットダウンして、他の人と、意識や波動を交流出来なくし、実際に、孤独感を感じるまでに至るのです。

しかしながら、気持ちを共有する欲求が満足のいくレベルで満たされることは、極めて稀です。そもそも、親の世界と、子供の世界は、乖離しているのです。子供の世界とは、魔法のかかった世界であり、そこでは、全てが命の息吹をあげているのです。鉛筆も、布切れも、窓のくすんだ汚れでさえも、生きていて、何かメッセージを子供に語りかけているのです。子供は万物と対話しています。子供の世界では、全てのものが生きていて、輝いているのです。その輝きを感じる繊細さを失った大人が、子供の世界を理解できる由もないのです。

私(加藤)が3、4歳であったころ、絵本を読むと、その絵本の世界は、私にとってありありと生きていました。登場人物がしゃべる声が、実際に私の耳に入りました。登場人物の息遣いさえ感じることができました。絵本の中で風が吹くシーンがあれば、私の皮膚は、その風圧をリアルに感じていました。子供にとって、その絵本の世界は、一つのリアルな世界なのです。しかし、大人から見ると、それは絵付きのお話しでしか過ぎません。子供と大人では、感受性がまるで違う。ですから、感情を共有することは、不可能ではありませんが、基本的に、そもそも難しいのです。

実は、あなたの幼少期に、この欲求は十分満たされなかったのです。そう断言しても過言ではありません。その不満足さは、あなたの成長期も、成人後も、うずき続けます。そして、あなたは、成人後も、無意識の内に、親を、あなたの気持ちを分かってくれる存在として期待し続けます。

この潜在意識下での、感覚的な親への期待が、肥大化し続け、理性的な親の認識(親は自分を理解することは無いという理解)とバランスを失する結果になります。その結果、あなたは、親があなたを理解してくれないことに、耐えられないようになる、もしくは、親の無理解を許せなくなるのです。

例えば、あなたは成人して、結婚して子供を一人得たとします。子供が3歳になると、離婚をすることになりました。裁判の結果、親権を得ることが出来ましたので、あなたは子供との二人ぐらしを始めました。裁判の取り決めで、分かれた夫が養育費をあなたに毎月振り込んでくれますが、それだけでは十分ではないので、あなたは毎日働きづめです。育児と仕事の両立に日々にあなたは疲弊します。

そんな折、あなたは母親に電話をかけ弱音を吐きました。すると、あなたの母親は、あなたを批判し始めます。彼女曰く、「そもそも、お前がダメな嫁だから、離婚なんてことになるんだよ。子供がかわいそうだよ。子供には親が必要なのに、お前が働いている間、子供は保育園にあずけられるんだろ?かわいそうに。お前はひどい親だよ」と。

このとき、あなたは、あなたの母親があなたの苦難に共感してくれて「今は、つらいだろうけど、頑張れ。私ができることがあれば、何でもしてあげるから。私を頼ってくれていいから」と励ましてくれるのを期待していましたので、母親の批判は、ただ、ただ、あなたを失意の底に沈めます。

ここで、彼女の批判に木っ端みじんに打ちのめされるほどに、あなたがひどいショックを感じるのは、どうしてなのでしょうか?ショックを受ける度合は、母親があなたの気持ちを理解してくれることを期待していた、その期待の度合と正比例します。あなたは、あまりに強く、母親があなたの状況を理解して同情してくれることを期待していたのです。なぜ、あなたの内側で、その期待値が高くなるかというと、既述した通り、あなたの乳幼児期に、その欲求が十分にみたされなかったために、あなたの潜在意識で、その欲求不満がくすぶり続け鬱積した結果なのです。

気持ちを親と共有する欲求が乳幼児期に満たされないと、その抑圧された願望が、成長期を過ぎ、成人してもなお、膨張し続けます。「快」を親と共有するためには、まず親を喜ばせる努力を払わなければいけない、という目的感が、自然と芽生えます。やがて、「自分が幸せになるためには、親を幸せにしなければならない」という義務感を伴うようになります。そして、最終的には、「私が親を幸せに出来ないのなら、私自身が幸せになることはあり得ない」という強迫観念にまでに発展します。

親の幸せがあなたの幸せに必要不可欠だという精神状態の中にあり、そして、親と死別したのであれば、当然、あなたは、自分が幸せになれるはずが無いと感じるようになります。そして、親を失うことに過剰反応をするようになるのです。

程度の差こそあれ、我々の潜在意識には、「親を喜ばせたい」という動機がうごめいています。あなたが、どれだけ、理性的に、親が幸せであるかどうかについて、あなたが責任を負っていないことを理解していても、あなたは、負っているように感じ、そして、何が何でも親を幸せにしたいという衝動に駆られてしまうのです。

どれだけ、あなたがその動機・衝動によって影響を受けているか、考察してみましょう。是非、ここで一度立ち止まって、自問自答してみてください。

「私(読者、あなた)が、何かの取捨選択をする時に、私はどれだけ親を意識しているか?」すなわち、「私は、親を喜ばすために、〇〇〇を選択しているのではないか?」と、自己分析してみてください。

職業選択をここで、取り上げてみましょう。あなたがあなたの職業を選択するとき、あなたの親があなたの職を誇りに感じることができる、あなたは、無意識の内に、そんな職を選ぼうとしたのではないでしょうか?

例えば、あなたの父親が医者であるとして、あなたが医者になる道を選んだのであれば、あなたにとって、医療によって人を助けたいという意志が、その選択の主要因であったにしても、「私(あなた)が医者になれば、私の親も喜んでくれる」という気持ちも、あなたの内側に存在したのは、事実ですよね?違いますか?

仮に、あなたが医者以外の職を目指したかったとして、それを父親に告げたら、彼はこう言い返してきました「お前(あなた)は、医者になって、将来に、私(あなたの父親)が院長を務めるこの医院を引き継ぐのが宿命なのだ。それ以外の生き方を、私は許せない。お前が会社員になるというのなら、私がお前の医学部在席中に支払った学費4千万円を、返してからなれ。」あなたが医者にならないのなら、あなたの親が失望するのが明確であったとして、あなたは、医者にならないという決意を貫くことが出来ますか?

また、例えば、あなたが一部上場の食品関連の大企業に勤めていましたが、今般、転職することになったとします。その際、あなたは、これまでの会社とほぼ同格の、一部上場の大企業での職を求めているとします。それはどうしてなのでしょうか?高賃金を得るため?職を安定して継続するため?

あなたが大企業での職を求めるのは、その大企業で知名度が高ければ、あなたの親がその企業を知っているからではないでしょうか?あなたの心のどこかに、「親が知らないような、小さな会社に入りたくない」という意識はないでしょうか?「親も喜んでくれるような会社に入りたい」という気持ちが、あなたの心のどこかに潜んでいないでしょうか?

同様に自己解析を続けてください。あなたの伴侶の選択についてはどうでしょう?あなたは、当事者同士が愛し合ってさえいれば、親がその結婚に反対だろうがなんだろうが、そのパートナーと結婚することができる、と思っていることでしょう。親の意志は全く関係ないと。

しかし、あなたの心のどこかに、「私が選んだ人を、私の親も気にいって欲しい」という気持ちはありますよね?違いますか?その気持ちが確かに存在するのなら、もしかすると、あなたは、無意識の内に、あなたの親が喜んでくれそうな人を、伴侶として選んだのではないでしょうか?「この人なら、私の親も祝福してくれるはず」という意識が働いていなかったでしょうか、あなたが伴侶を選んだ時に?

また、例えば、あなた方夫婦に一人お子さんがいるとします。あなたは、二人目の子供が欲しいと感じています。それはなぜでしょう?それは、あなたの本能的な衝動と言えるでしょう。また、一人目の子供に弟もしくは妹がいたほうが、一人目の子供がもっと幸せになるという判断もあることでしょう。しかし、そこには、「孫が複数いるほうが、私の親が喜ぶから」という意識があるのではないでしょうか?「もう一人孫を、親に見せたい」という意識はありますよね?違いますか?

引き続き自己分析をしてください。あなたが、居住地を選んだ時はどうでしょうか?あなたが大学を選んだ時はどうでしょうか?あなたのこれまでの人生における重要な選択の数々において、あなたはどれだけ、あなたの親を意識していたでしょうか?居住地も、大学も、知らず知らずのうちに、あなたの親が認めてくれるものを選択したのではないでしょうか?

日中、あなたが街を歩いていると、あなたの足元で、あなたにぴったりくっついてくる、あなたの影。そんな影のように、「親を喜ばしたい」という意識が、あなたの人生の選択の過程において、その過程にぴったりと、忍び寄ってきたはずです。無意識の内に、あなたは、「私のこの選択(例:職業、伴侶、第二子、居住地、大学)が私の親を喜ばすものであって欲しい」と願っているのです。

要約すると、あなたのセンチメントやムードや情動において、「親を喜ばしたい」という感覚的な力で、あなたの内側が満ちているのです。あなたは、自覚しているよりも、ずっと強く、親の幸せを願っています。実は、あなたは、無意識の内に、親を喜ばすために生きようとしてしまっているのです。

そのため、あなたが日常を生きる上での、個々の判断において、実は、あなたの心は、知らず知らずの内に、親を喜ばす何かを求めようとしてしまうのです。

「親を喜ばしたい」という無意識の衝動に駆られているあなたにとって、親の死は、あなたの生きる目的の喪失を意味します。既述したように、あなたは、感覚的には、あなた自身の「快」と親の「快」が同時発生するのを期待しています。親を喜ばすことによって、自分自身が喜べるようにしようとしています。親の幸せが、あなたの幸せにとって必要不可欠なのです。親と死別してしまうと、あなたが幸せになるための基本方針が消滅してしまうのです。あなたは、どうすれば、あなた自身が幸せになれるのか分からなくなり、当惑し、不安を感じるようになります。

親を失うと、あなた自身が幸せになれないと感じて不安を覚えるだけでなく、あなたには、生きる目的を失ってしまったように感じられるのです。親の「快」が目的化されてしまっているために、親が他界すると、あなたは、あなたが生きる上での目的を失ってしまったように感じるのです。親を失ったことで、「何もかもやる気を失った」と心境を吐露される方は多いのですが、それは、このことが原因です。

親を失うことでの目的感の喪失、これは、あなたの自尊心にも影響を与えます。あなたが、「親を喜ばす」という生きる目的を失った時、あなたは、あなた自身の価値を失ったとすら感じます。

あなたは、あなたの「快」と親の「快」が同時発生する状態をゴールにしているのですが、当然、そのゴールを達成することに価値観を見出しています。そのゴールを達成できるのなら、あなたは、あなた自身が素晴らしい人間であるように感じることが出来るのです。ですから、親が死に、そのゴール自体が消滅してしまうと、あなたの価値を定義する源すら消失してしまうのです。ですから、あなたは、あなた自身を、ひどく価値の低い人間であるかのように感じてしまいます。

あなたがマラソンを走っていたとして、走っている最中に、突然、ゴールが消えて無くなったことを、あなたが知ったのなら、あなたは何を感じるでしょうか?あなたがどれだけ走っても、どこに行きつくことも無いのなら、あなたはどうしますか?あてもなく、走り続けるのでしょうか?それとも、力を失い、その場で立ち止まるのでしょうか?

あなたがマラソンを走っている最中にゴールを失ってしまったのなら、どこに向けて走っていいかが分からず、方向性を失い、困惑することでしょう。また、ゴールも無いのに、あなたがただ走り続けるのなら、あなたは、自分がしていることが無意味であるようにすら感じることでしょう。マラソンランナーであるあなたにとって、ゴールの消滅は、耐えがたい苦痛なはずです。

「人生」という名前のマラソンコースを走っているあなたは、実は、無意識の内に、親の幸せを、マラソンのゴールとして設定しまっているのです。そのゴールが失われるのは、あなたにとって耐えがたいのです。そこに過剰反応の根本原因の一つの要因があります。


第三節:過剰反応の根本原因その3:親子関係をやり直す機会の喪失

完璧な親というのは、世の中に存在しません。一日24時間、常に優しい眼差しを子供に向けて、常に温かい雰囲気で子供を包んであげて、常に微笑みを向けて、常にポジティブな言葉をかけ続け、常に子供が必要とするケアを提供し続け、常に健康的な食事を提供し、常に子供の立場を守ってあげられる、そんな親は、そもそも存在しません。

親は人間です。どの親も個人的な問題や悩みを抱えながら、日々を過ごしています。仕事でひどい失敗して帰宅してすぐに、子供が「お父さん遊ぼう!」とすり寄ってきても、「うるさいだまれ!」と怒鳴りつけてしまったりします。自分の悩み事(例:相続の問題)にばかり神経をすり減らし、子供からのサイン(例:子供は最近学校でいじめられはじめた)を見過ごし、何の対応もしていなかったら、その結果子供が不登校になったりする。あえて意地の悪い言葉をかけて、子供を泣かしてしまったり、人前で子供を蔑んで、子供のプライドをへし折ったり、様々な形で、親は子供を傷つけています。親は、日々、育児で色々な失敗をしているのです。

完璧な親のもとで、完璧な幼少期を過ごした子供というのは、この世に存在しません。過去において存在しませんでしたし、未来においても存在し得ません。

あなたの幼少期において、どこかの時点で、あなたは、「私は両親から認められていない」とか「私は両親から愛されていない」とか「親にとって、私は邪魔な存在なんだ」とか「お父さんにとっては、私なんてどうでもいいんだな」とか「お父さんとお母さんは本当は愛し合っていない、それは私が悪い子だからなのか?」とか感じて悲観に暮れた瞬間があるはずなのです。

あなたは、親から温かく迎えられ、気持ちを汲み取ってもらって、深く分かってもらえる、そんな状態を望んいたにも関わらず、あなたのそういったニーズは無視され、親から見捨てられたかのような感覚を味わった瞬間があるのです。

そのことが、一体、どんな意味を持ち得るのか、それを子供の目線で考えてみてください。大人の目線で考えるのではなく、「親から突き離れされている」という感覚が、子供の精神、子供の世界にとってどんな意味を持ち得るのか?それを、感じてみようとしてください。

ここで、前節及び前々節で議論した点についても参照してください。前々節において、「依存の感覚」が心に根付いていることを指摘しました。あなたは、無意識のうちに、親を、あなた自身の存続を保障してくれる存在として、依存しているのです。心のどこかで、「親無かりしば、私の存在は危うくなる」と感じているのです。

前節において、「親を喜ばしたい」という無意識の欲求を取り上げました。あなたは、無意識のうちに、あなたの「快」と親の「快」が同時に発生することを願っています。心のどこかで、「親無かりしば、私は幸せになれない」と感じています。

そんな対象である親から、無視されたり突き放されたりしたら、どうでしょう?特に、子供にとっては、それがどのように感じられるのでしょうか?それを想像してみてください。

あなたが生存するために、あなたが幸せになるために、必要な存在として感じられるのが、あなたの親なのです。そんな親から拒絶されたのであれば、それは、生存が保障されていないことを意味し、それは、あなたが幸せにはなれないことを意味します。特に、自分自身で生活する能力を有しない子供にとっては、それが顕著に感じられてしまうはずです。それは、子供にとっては、「絶望」と呼んでも差し支えないほどの不安と恐怖を喚起すると言っていいのではないでしょうか?

あなたは、実は、幼少期を通じて、親子関係において、「絶望」と呼べるほどの失意を味わっったことがあるのです。それは、あなたが親子関係の完全に機能不全であったということは意味しません。親から愛されていることを実感したり、親と笑いあい楽しい時間を過ごせた瞬間も、無数にあります。今、あなたは、あなたの両親との親子関係について、概ね、幸せだと感じているかもしれません。しかし、幼少期にひどい失意を味わったことが、ほんの一瞬であるにせよ、あったことは、事実であるはずです。その失意は、既述した通り、子供にとっては、あまりにも強烈なインパクトがあるために、その失意は、あなたの内側で、心の「うずき」として、根付くようになります。

「うずき」とは、親に十分愛されなかったという悲しさであったり、親に深く理解されずに、突き放されていたという寂寥感であったり、親から言葉の暴力を受けた痛みであったり、親に評価されることが無かったという無念さであったりします。その「うずき」が、感覚的には、大人になった今でも、あなたの内側で、じくじくと痛み続けているはずです。違いますか?

その「うずき」に対して、あなたの心は、親子関係をやり直すという願望にしがみつくことで、対応しようとしているはずです。どうでしょう?あなたの心のどこかで、親が態度を変えて、満たされていないあなたの心をケアしてくれるのを期待していないでしょうか?

あなたは、口では、「もう親はどうでもいい(=親が私のことを分かってくれないのは、どうしようも無いことだから、それに囚われることなく、私は前向きに生きたい)」と言うかもしれません。しかし、心のどこかで、親ともっと分かり合えるようになれることを願ってはいないでしょうか?

人間の心は、一般的に、苦しみから逃れる手段として、想像の世界の中に逃げ込もうとするものです。例えば、あなたが失恋してひどく傷ついたのなら、あなたの心は、まず、失恋という事実そのものを否定して、「これは、嘘よ!嘘!明日になれば、彼は、いつものように、『俺が悪かった』と言ってきてくれるはず。それで、私たちは元の鞘に収まるの」と想像します。そういった想像の中で、復縁の可能性が信じられる間は、あなたは、そこに希望が見いだせるのです。

「やり直すことができるはず」という想像の中に逃げ込むことで、心の痛みを軽減することの例は、枚挙にいとまがありません。例えば、あなたが会社で左遷させられて閑職に回されたのであれば、「いつか、俺は、営業の最前線に戻れるはず」という願望の中に入りこみますよね?友達と喧嘩したのであれば、「仲直りできるはず」と想像する、株式投資で損をしたのであれば、「市況が良くなれば、また一儲けできるはず」と期待する、我々は、そのように、思い込むことで、不安や心の痛みに対応しようとします。

それと同じように、あなたは、想像の世界の中で理想的な親子関係を築き上げ、その中に逃げこむことで、心の安寧化を図るのです。

例えば、あなたが親の反対を押し切って、駆け落ちして結婚して、あなたの家庭を築いたのだとします。あなたの子供を、まだ親に見せたことはありません。理屈上は、あなたの親が、あなた方夫婦を認めてくれそうも無いことを理解していても、心情的には、親が笑ってあなたを抱きしめ、あなたの子供を抱きしめてくれるのを、期待してしまいます。感覚的にあなたのその願望を表現すれば、親に受け入れられるという喜びの中に、あなたは溶け込んでしまいたいのです。

親が存命であるうちは、あなたの親があなたの結婚を受け入れてくれる可能性が残ります。それが小さな可能性であっても、可能性は可能性です。親が生きている間は、その可能性がゼロになることはありません。では、親が死んでしまったらどうでしょう?親と死別した瞬間、「いつか、親が私の結婚を認めてくれるはず」と想像することすら叶わなくなってしまいます。可能性のあることを期待することが出来なくなります。これは、精神的にとてもつらいことなのです。希望を見出すことが出来なくなるのですから。

人間は、希望に生きる糧を見出します。例えば、癌患者にとって、どんなにそれが進行癌であっても、癌が治る可能性が数パーセントであっても、そこに希望があるのなら、生きる意欲を維持することができます。それと同じように、親子関係をやり直すことが仮に想像上の議論であっても、そこに希望を見出せるのなら、我々は、その希望の灯りにむけて生きようとするのです。

物理的に親子関係をやり直すことが出来ないのは、自明の理です。タイムマシーンであなたが3、4歳だったころに戻り、あなたが望む形での親子関係を体験することが、実際には、出来ないのは言うまでもありません。

物理的に過去に戻って親子関係はやり直せない。しかし、あなたは、次のようなやり直しを期待するのです。あなたの親が、態度を根本的に改めて、あなたをじっくり見つめようとします。あなたの父親・母親は、あなたの立場に立ち、あなたの幼少期から今日までの時間に、あなたが親からどんな風に傷つけられたか、それを真摯に理解し、感じようとします。彼・彼女は、あなたの過去の一コマ一コマを、ものすごく深い慈しみの気持ちを込めて、思慮深く見つめます。幼少期に、あなたが感じていた寂しさや悲しみについて、彼・彼女は心から詫びます。そして、彼・彼女は、今後、あなたを決して見離したりせずに、常に、あなたの全てを受け入れることを約束します。

そんな風に、親の方からあなたの方に歩み寄ってきて、彼・彼女があなたを深く理解し、そのことで、あなたが負った傷が癒され、あなたの心の渇きが癒されるのを、期待しているのです。近い将来、そんな感じで、親子関係をやり直すことにより、あなたの満たされない気持ちが満たされることを、無意識の内に、期待してしまうのです。

そういった期待を抱いているのですから、親との死別が耐えがたいものになるのは、言うまでもありません。親の死は、親子関係をやり直す機会が、今後発生し得なくなったことを意味します。親子関係をやり直す機会の喪失は、幼少期におった、あなたの心の傷、心の穴が、親によって埋められる可能性が消失したことを意味します。これは、あなたにとって、あまりにもつらいことなのです。これが、親との死別に際し、あなたの内部で過剰反応が起きる、三つ目の理由です。

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