最新エッセー:真なる救済は、苦痛を取り除こうとすることにあるのではなく、「一なるもの」を知ることにある。

金銭や健康や良好な人間関係は、悟りの副次効果としてもたらされます。幸せになりたいのであれば、あなたはまず悟りを目指すべきなのです。このエッセーは、その霊的教えの核心を、解説します。
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レイキセミナー(於:Palatine, IL)

レベル1:Apr 14, 2019
エッセー前作

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「たかが親されど親」
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「スピリチュアルな洞察が、どのようにあなたの生活の役に立つのか」
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「あなたの幸せの答えは、あなたの内側にある。」
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エッセイ57 (2018年4月30日著)

たかが親、されど親

魂の観点から見た、親子関係の考察

親を失う痛みを乗り越えるために

著者:加藤優


第五章:親への憎しみの考察:筆者加藤は、 なぜ母親を憎むのか、なぜ憎む彼女を愛せるのか?

ここまでの本エッセーでの議論において、親子関係における、無意識の領域の傾向を述べてきました。親を失うことへの過剰反応の根本原因として、三点記してきました。まず、一点目、実は、あなたは、無意識の内に、「私は、親無しでは生きていけない」と感じているのです。であれば、親を失うことは、あなたの生存を保障してくれる存在の消失を意味しますので、あなたには耐えらないのです。そして、二点目、実は、あなたは、無意識の内に、「親が幸せでないのなら、私は幸せになれない」と感じているのです。そのように感じているのなら、親を失うことが耐えられないのは、自明の理です。最後に三点目、あなたの幼少期における満ちたりなさを、親子関係をやり直すことで埋め合わそうとしています。無意識の内に、あなたはそう望んでいるのです。親を失うことは、やり直す機会を失うことになりますので、それが耐えられないのです。

さて、私のこの主張について、あなたは、次のような疑問をいだくかもしれません。「我々が、無意識の内に親に依存しており、かつ、親を喜ばそうと動機づけられており、その上、親子関係をやり直すことを望んでいるのなら、我々は皆、親の言うことを完全に聞くような従順な子供になってしまうはずだ。親の言うことに完全に従い、そのことで、親を喜ばし、親の承認を得ることだけに執心するような、まるでロボットのような存在になるはずだ。しかし、実際は違う。我々は、親に反抗し、親が望まないことをたくさん行動してきた。自分自身を親から遠ざけたり、親をあえて悲しませたり、親と口論したり。そんな風に、親の望むような生き方しない子供はたくさん存在している。であれば、加藤さんの主張はおかしい」と。

本章では、上記の疑問を解消するため、あなたが親と敵対し、そして、実際に親から距離を取ることで対応しているケースを考察します。何がしかの原因で、あなたが、親を嫌い、親を憎み、親を軽蔑し、親に怒りを感じ、そして、親から離れていたいので、別居したり、別居しないまでも、同じ家の中で、なるべく顔を合わせないようにしているのなら、それは、私の主張、すなわち「我々は無意識の内に親を必要としている」という主張と矛盾しているように、思えてなりません。親を必要としているのなら、なぜ、親を嫌い、親から遠ざかろうとするのか?それをどう説明すればいいのでしょうか?

まず、あなたに問いかけます。あなたが、親を心底嫌っているのなら、親と会わないようにすれば、親の顔を見ないようにすれば、親のことを考えないようにすれば、あなたは、本当に深く心の安寧を得ているのでしょうか?そうすれば、喜びに満ちた日々を送れるのでしょうか?あなたが親を憎んでいるのであれば、親が死去すれば、清々とし、解放感を味わえるのでしょうか?

あなたが実際に何がしかの虐待、性的な虐待、もしくは、言葉の暴力による精神的な虐待を親から受けてきたのであれば、親が居なくなれば、あなたへの脅威が無くなるわけですから、その意味での安堵感をあなたは感じることでしょう。しかし、親さえいなくなれば、あなたの苦痛の源も無くなり、それで、あなたは満足出来るのでしょうか?本当にあなたは、自由になれるのでしょうか?

あなたが、親との関係において、解消不能な対立の中にあるのなら、あなたが親と袂を分かつこと(例:別居)が、最善な選択なのでしょうか?口すら利かない、顔を合わせない、そうすれば、あなたも嬉しくなり、親も嬉しくなり、お互いに幸せになれるのでしょうか?

いや、むしろ、あなたに圧迫感や脅威感を与えていた親ですら、お互いに対立したまま死別したのであれば、何がしかの寂寥感や空虚感を感じるのではないでしょうか?何がしかの、虚しさや、やるせなさを感じるのではないでしょうか?

例えば、あなたが友人と大喧嘩をして、その後、仲直りする機会を持つことなく、音信不通になり、連絡の取りようもなくなったとしたら、あなたは何を感じますか?少なくとも、あと味は悪いですよね?

では、あなたといがみ合っていた親が死去し、今後、和解するチャンスが全くないのだとしたら、あなたは何を感じるでしょうか?親と喧嘩したままの状態で、親が消滅したのなら、もう金輪際、喧嘩が発生し得ないことを、あなたは喜ぶのでしょうか?

本章は、次の四点を議論します。まず、一点目、あなたはなぜ親を嫌い、怒りさえ覚えるのでしょうか?あなたが親をどれだけ嫌っているとしても、あなたの潜在意識では、親との心温まる交流を望んでいるのです。あなたが心温まる交流を望んでいるのに、あなたの親がそれを提供してくれないがゆえに、あなたは傷つき、親に怒りを覚えるのです。

二点目、あなたが親と対立しているとして、あなたは、今、どんな対応をしているでしょうか?親と顔を合わせれば喧嘩するばかりなので、喧嘩が起きないように、お互いが会わないようにすることは、ある意味、致し方無いことです。しかし、お互いがお互いを敬遠し続けるのであれば、上記の潜在意識の欲求を満たすことは無いのです。そのため、親と袂を分かつことは、あなたに深い満足感を与えません。

三点目、親と距離を取るのが得策でないのなら、あなたはどんな対応をすればいいでのしょうか?私は、スピリチュアルなアプローチを提唱します。あなたは、「本当のあなた」(真我、魂)を経験することで、親への怒りや憎しみを超越するのです。すると、あなたは、親に怒りを感じているのだけれども、その怒りに支配されることが無く、親に優しくできるような精神状態になれます。

四点目、ケーススタディとして、私が体験した、私と母親の間の確執を取り上げます。私がなぜ母親を恨んでいるのか、そして、私がどのように憎しみを超越していったのかを説明します。


第一節:愛するが故の憎しみ

まず、何よりご理解いただきたいのは、親から好意を受けたいという、あなたの無意識の欲求は、非常に純粋な欲求であり、自然に発露する「力」であるということです。

「純粋な欲求」とは、例えば、次のようなものを差します。あなたが四歳ぐらいのときに、散歩をしている時、路上でとても愛くるしい子猫を見かけたとしまう。その時、「かわいいー!なでなでしたい」と感じ、自然と手が子猫の方へと延びていきます。この瞬間に、あなたは、あなたの内側で、温かい感情がウズウズと沸き起こります。その子猫に近づきたいという衝動が自然と流れ出します。それは、理屈ではありません。そこには、打算や計算はありません。ごくごく自然で本能的な、可愛いものに近づきたいという欲求です。

あなたの精神には、そんな子供の純粋さを備えた部分が、主に無意識の領域に存在します。あなたは、そんな純粋さから、無意識の内に、親を必要としているし、親から助けてもらたいし、親に支えて欲しいし、親があなたに向けて笑顔を見せて欲しいし、あなたのことを抱きしめて欲しいし、あなたの気持ちをもっと分かって欲しいのです。

繰り返しますが、それは、非常に純粋な願いなのです。あなた(大人)の内側に、小さな子供としての、もう一人のあなた(インナーチャイルド)が存在し、その子は親に近づきたくて、褒めて欲しくて、ぎゅうっと抱きしめて欲しくて、ウズウズしている。その純粋な衝動は、あなたが成人した後も、あなたの内側でうごめいているのです。私が指摘している無意識の衝動について、どうか、そのようにご理解ください。

あなたは、打算や計算無しに、純粋に親に近づこうという「力」が内側に潜んでいます。しかし、それが純粋であるがゆえに、あなたは親に幻滅するのです。あなたの成長過程で、あなたの親があなたを愛するとき、それが100%純粋な愛であるとは言い難く、そこに親個人の打算や計算が潜んでいることを学び、あなたは、傷つき、失望し、やがて怒りさえ覚えるようになるのです。あなたが、純粋に近づきたいと願っているのに対し、親は不純な愛をあなたに投げ返してくる。あなたは、そのギャップに苦しむのです。

例えば、あなたの親が、あなた(子供)に優しくしている時、その優しさが親の純粋な愛から発現しているのではないのです。あなたの親は、彼自身・彼女自身の孤独感を埋めるために、あなた(子供)からの好意を引き出そうとします。あなたの親は、自分の恐怖感から逃れるために、あなた(子供)の愛情の中に逃げ込もうとします。彼・彼女は、あなた(子供)から優しくされたいから、あなた(子供)に優しくしようとするのです。ある意味、あなたの親は、安堵感を得るために、あなた(子供)という存在を利用しようとしていると言えます。

また、親は罪の意識を感じるがゆえに、あなたに優しくしようともします。例えば、普段は、仕事で忙しいがゆえに、一緒に過ごす時間をとれない父親が、たまたま休みが取れる週末に、子供を遊園地に連れて行こうとします。このとき、実は、彼は、普段家族の面倒を見ていないがゆえに、世間から「家族をかえりみない冷たい父親」とレッテルを貼られるのが怖いのです。その恐怖から逃れるために、あなたに優しくしようとします。彼は自己満足のために、すなわち、「ああ、俺(あなたの父親)は、なんていい父親なんだ」と感じることが出来るように、あなたに優しくしようとします。

あなたの親があなたに何がしかの指導やしつけをする時に、本当にあなたにとってプラスになるのことを意識しているというよりは、世間体や見栄の計算が潜んでいます。あなたの親が、あなた(子供)を学習塾にいかせようとするとき、そこには、あなたが思考能力を高め、知識を深めることを期待しているというよりは、あなた(子供)が学習面で他の子供達に遅れをとって欲しくない(もしくは、他の子供達を超えて欲しい)という意識が働いています。もし、あなた(子供)が成績が上がれば、世間の人が、あなたの親を「素晴らしい親」として評価してくれるのも期待しているのです。

あなたが女性であるのなら、あなたの成人後、あなたの母親が、あなたに結婚をせっついたことがあったのではないでしょうか?あなたがなかなか結婚に踏み切れず独身でいると、「女の幸せは、結婚して家庭を築くことにある。だから、早く結婚しなさい」とあなたに口うるさく注意したことはあるのではないでしょうか?このとき、あなたの母親は、あなたの幸せを願ってそれを言っているというよりは、あなたが行き遅れたのであれば、世間の人が彼女を、「家庭を築こうとしない異常な娘の母親」として批判するのが怖いのです。

いずれにせよ、あなたの親があなたに優しくしたり、指導やしつけや注意をするとき、彼の視線、彼女の視線は、あなた自身に向いていないのです。彼の視線、彼女の視線は、彼自身・彼女自身の不安や恐怖や虚栄心に向いているか、もしくは、世間や周りの人の目に向いているのです。あなたの親は、あなた自身を見つめていない。

あなたは、成長すると共に、あなたの親が、彼・彼女の愛情や指導を、彼・彼女の恐怖心や虚栄心や見栄から供出していることが分かると、あなたは親に失望し幻滅するのです。あなたの潜在意識での「親から好意を向けられたい」という願望が、なまじ、純粋であるだけに、この失望は、あまりに深くかつ深刻なものになります。

例えば、あなたが犬を飼っているとして、あなたが自分の犬を可愛がりたいという衝動を感じて、犬をナデナデし始めたときに、あなたの犬が打算で反応したら、あなたは何を感じるでしょう?あなたの犬が、「僕(あなたの犬)が嬉しいふりをすれば、この人(あなた)は喜んでくれて、きっと今晩の餌は豪華になるはず。そんじゃあ、一杯尾っぽ振っとこうかな!」と考えて、計算して、あなたに反応しているとしたら、あなたの喜びは半減しますよね?

そうではなくて、あなたの犬は、実際は、純粋に嬉しいのです。目を潤ませて、尾っぽをぶんぶんに振って、その犬の内部から喜びが爆発しているのを感じて、あなたは嬉しくなるのですよね?あなたが純粋な愛を犬に向けると、犬から純粋な愛が返されて、そこに温かい感覚の交流がある。だから、そのとき、あなたは胸の奥がジーンとするほどの喜びを味わう。

実は、あなたは、あなたの親との間で、そんな温かい感覚の交流を求めているのです。しかし、あなたが純粋な愛を親に向けても、あなたの親は、親自身のために、または世間体のために、彼・彼女の愛をあなたに向けてくる。その親の態度は、あたかも、打算で尾っぽを振る犬のようなものなのです。それで、あなたは、失望し、親への怒りを覚えます。

あなたが純粋に助けを求めている人が助けてくれなかったら、あなたは何を感じるでしょう?あなたが純粋に優しさを求めている人が優しくしてくれなかったら、あなたは何を感じるでしょう?気持ちを汲み取ってくれることを、あなたが純粋に求めている人が、全くあなたの気持ちを分かってくれなかったら、あなたは何を感じるでしょう?

あなたの欲求が純粋であるだけに、その欲求が親に叶えられないと、あなたは「裏切られた」とさえ感じるようになるのです。そして、悲しさ、さびしさ、当惑、そして、あまつさえ、その相手に向けて強い怒りを、感じるようになります。あなたの欲求が純粋であればあるほど、あなたの傷も深く、怒りも強いものになります。

ここで、思い返してみてください。あなたが、あなたの伴侶、もしくは恋人と、喧嘩になる時とは、どんな時でしょうか?それは、助けて欲しい時に助けてくれない、分かって欲しい時に分かってくれない、そんな時ですよね?あなたは、伴侶・恋人に怒りを覚えるのです、「なぜ、助けてくれないのか!」「なぜ、分かってくれないのか!」と。同様の例をあげるのに、枚挙にいとまがありません。

例えば、あなたが派遣社員であるとして、派遣先の勤務評価が高ければ、三年後に派遣先の会社で正社員として採用される可能性があるとします。あなたは、離婚して三歳の一人息子を引き取ったばかりなので、正社員のステイタスを渇望します。あなたは懸命に働きます。客観的には、あなたの貢献は十分なのですが、あなたの上司はあなたに不当な評価を下しました。なぜなら、勤務時間後のあなたの「つきあい」が悪いからです。彼は、あなたを「飲み」に連れ出して、その先の「大人の関係」を深めたいという下心があったのです。それを払いのけたあなたに対して、彼は私怨の腹いせから、あなたに最低の勤務評価を下し、そのせいで、あなたは、正社員として採用されることは見送られたのです。この時、あなたは何を感じますか?彼を殺したいほどに、憎むのではないでしょうか?

他にも例をいくつかあげましょう。あなたが小学生であるとして、クラスでいじめにあったにもかかわらず、あなたの親友が見て見ぬふりをして、助けてくれなかったら、あなたは、その親友に何を感じますか?あなたが深夜に腹部に激痛が走ったために、緊急病院に救急車でかつぎこまれたときに、病院のスタッフが疲労で迷惑そうな表情を見せたら、あなたは何を感じるでしょうか?助けが必要である度合が高ければ高いほど、そのニーズが無視された時は、強烈な悲哀を感じ、怒りを覚えるのです。

それは、当然、親子関係にも当てはまります。あなたの親があなたを支援してくれることを期待している時に、あなたの親ががあなたに敵対的な態度をとってきて、あなたを攻撃したり、非難してきたら、どうでしょう?あなたは、怒りを覚えますよね?

もし、あなたがあなたの親との軋轢や対立を経験していて、そして、あなたが親に反抗的な態度をとり続けているのなら、それは、実は、親と接近したい、分かりあいたい、気持ちを共有したいという、欲求の裏返しなのです。あなたの内側で、親から優しくされたい、微笑みかけて欲しい、分かって欲しい、という願望が、まず最初にありきなのです。しかし、純粋に優しくして欲しいのに、親があなたに純粋に優しくしてくれないから、腹をたてて、親に反抗し始めるのです。親から愛されたいという気持ちが、親への怒りの原動力になるのです。

もし、あなたがとても強い憎悪を親に抱いていて、親の顔も見たくない、あまつさえ、親に早く死んで欲しいとすら思っているために、上記の私の指摘(心の奥では、親から優しくされることを望んでいる)を、信じられないのだとしたら、私は、次の点を強調します。あなたの親への怒りの度合は、親から愛されたいという潜在意識の願望の度合と正比例するのです。怒りが強烈なのなら、それと同等の強度の愛されたいという願望が潜んでいるのです。

そうですよね?愛されたいという気持ちが全く存在しないのなら、親があなたにどんな態度をとっても、あなたは、何も気にならず、腹が立ったりしないはずですよ。愛してくれることを期待している人が冷たい態度をあなたにとるから、腹が立つのであって、愛してくれる必要が全く無い、あなたにとってどうでも良い人が、あなたに冷たい態度をとったとしても、腹が立たないのです。あなたの親への怒りは、愛されたい願望の反映なのです。

仮に、あなたと敵対していた親が他界し、あなたが何がしかの虚しさを感じるのであれば、それは、あなたは、心の奥底では、親と深く分かりあい、温かい心の交流を持つことを欲していたことを意味します。潜在意識では、笑顔で親と話し合いたいし、気持ちを共有し、お互いを祝福し合いたいのです。どれだけ、実際の親の態度が冷徹なものであったとしても、あなたは心のどこかで、その冷徹さが温和なものに変わり、いつかあなたを抱擁してくれるのを期待するのです。

「親から好意を受け取りたい」という無意識の欲求と、親の顔も見たくないという嫌悪感は、実は、同じコインの裏と表なのです。あなたが自覚している以上に、心の奥で親を必要としているのなら、親がその欲求を満たしてくれない時に、親に反抗的な態度や行動をしたとしても、実は、そこに矛盾は無いのです。愛されたいのに、愛してくれないから、腹が立つのです。結局のところ、人間の精神は、白黒で割り切れる簡単なものではないのです。愛と憎が入り乱れているのです。


第二節:親と袂を分かつことが得策なのか?

上記第一節は、次の重要な洞察を導きいれます。あなたが潜在意識で、親との心温まる交流を望んでいるのなら、親との対立を避けるために、親と袂を分かつこと(物理的に距離をとること)は、あまり得策ではありません。

親と顔を合わせれば喧嘩するばかりで、お互いに疲弊してしまうので、喧嘩が起きないように、お互いが会わないようにすることは、ある意味、致し方無いことです。しかし、お互いがお互いを敬遠し続けるのであれば、上記の潜在意識の欲求を満たすことは無いのです。

それは、喩えれば、高校生が異性に恋をしたとして、傷つくのが怖いために、告白せずに、距離を近づけようとしないことに似ています。告白をしないのなら、その相手との衝突は起きません。しかし、告白しないのなら、その相手と恋人関係になることも無いので、あなたが満足することも無いのです。それと同じように、あなたが親と距離を取り続けるのなら、あなたが深く充足感を味わうこともないのです。

あなたの知り合いで、親と対立関係にある人を、何人か知っているはずです。絶縁状態であったり、別居していて全く会わないようにしていたり(盆暮れ正月にも親元に帰らない)している人が、あなたの周りにいないでしょうか?そこでまいかなくても、親と顔を合わせるのを非常に苦痛に感じている(帰郷するのを心の底から嫌がっている)知人がいるのではないでしょうか?

では、あなたに質問します。そんなあなたの知人は、親と決別することで、幸せになっているでしょうか?知人が幸福感や充足感を味わっているように、あなたの目に映りますか?

あなたの知人は、親との対立について、既に達観していることをあなたに伝えているはずです。過去に何度も和解する努力を重ねてきたけれども、親の不合理で無理解な態度は変わらなかった、だから、もう今は和解の可能性を追求することすら止めてしまった。「しょうがないよね。人は変わらないよ。」と言って、親と分かりあうのを諦めていることを、あなたに言います。親と決別していても、全く寂しくないと、あなたにぼやきます。

では、親と絶交することで、その知人は、本当に幸せになっているのでしょうか?幸せそうには見えないですよね?どこか寂しそうだし、むなしそうに見えるのではないでしょうか?

その知人がどこかむなしそうに見えるのは、心の奥底が渇いているからです。繰り返し指摘しますが、既述の「親から好意を受け取りたい」という無意識の欲求は、純粋で本能的で原始的な欲求なのです。その欲求は、人が水を必要とするのと同じぐらい、基本的な欲求なのです。あなたが、どんなに水を我慢し続けても、喉の渇きがおさまることはなく、あなたは水を求め続けるのです。それと同じように、あなたの知人ががどんなに、「親から理解されることがなくても、生きていける」と強がっても、強がるだけでは、その飢餓感(親から好意を受け取りたいという欲求)が満たされることは無いのです。

しかも、親と顔を会わせないのは、表面的な対立(言い争い)を回避しているだけで、何も問題を解決していないのです。それは、生体エネルギーの観点からすると、明らかです。あなたのオーラは無限に広がっています。あなたのオーラは、無限に広がる親のオーラとそれがしか交差しています。あなたと親が、感情的にいがみ合うのであれば、オーラの交錯する地点で、エネルギーの衝突が発生し、それが、お互いのエネルギーフィールドを痛めつけ合うのです。最悪、それが原因で病気(例:癌)にもなります。エネルギーの世界は、空間や時間を超越してますので、あなたがどんなに親と物理的に離れて行っても、その距離が500キロだろうが、1000キロだろうが、2000キロだろうが、エネルギーの衝突は、起きえるのです。

あなたが親に嫌悪感を抱くのであれば、距離が離れていようがいまいが、それは、親のエネルギーシステムを痛めつけます。あなたの親があなたに嫌悪感を抱くのであれば、距離が離れていようがいまいが、それは、あなたのエネルギーシステムを痛めつけます。ですから、離れることで、言い争いを避けることは、実はあまり意味がないのです。

ここで、私は、あなたに、親との物理的な距離を何が何でも縮めなさいと言っているのではありません。親と同居して、毎日顔を合わせて、お互いに気持ちのいい言葉を掛け合うなければいけないと、指示しているのはありません。それが出来るようなら、最初からしてますよね?どんなに、あなたが、そうあろうと努力しても、あなたの親が理不尽であり続け、あなたを責め続けるから、それが出来ないのですよね? では、あなたは、どうすればいいのでしょうか?

あなたは、「本当の自分」を知る、精神覚醒を遂げる必要があります。そうすることで、あなたは、親への憎しみや怒りを超越し、親に憎しみを感じていても、それがエネルギー的に、何がしかの影響を誰にも与えないような、平和な状態になり得るのです。どのように親への憎しみを超越していけばいいのか、次節、次々節において、私と母親の間の確執をケースとして議論していきます。

第三節:筆者(加藤)はなぜ母親を恨むのか?

まず、私がなぜ、母親を恨むのか、その理由を説明します。理由として、以下に、四点あげます。

(1) 母親から受けた幼少期のトラウマ:彼女は、私が父親に蹂躙されるのを、見殺しにした。
(2) 子供は彼女の慰み者:彼女は、自身の孤独感を紛らすために、子供を利用している。
(3) 強い被害者意識:彼女が不幸せなのは、全て子供達のせい。
(4) 父親に刺した精神的止め:父親の癌闘病中、彼女は彼に生き残って欲しいとは思わなかった。

その議論を進める前に、誤解が予想される点について、注釈します。以下に、私は、なぜ、母親を恨むのかを述べていきます。私の視点からみて、どれだけ私が彼女からひどい仕打ちを受けてきたのか述べますが、それは、彼女を批判するのを目的としているのではなく、彼女を悪者扱いしようとしているのではありません。あなた(読者)の同情を引こうとしているのでもありません。

次節で解説しますが、私は、彼女を恨んでいますが、私の意識は、その恨みを超越しています。その恨みによって、私の意識が支配されることはありません。彼女に何がしかの報復をすることで、恨みを晴らそうという気が一切ありません。彼女に詫びて欲しいなどとも思いません。私が超越した憎しみの感情がどんなものなのか、それをあなたに理解してもらう意図で、その解説を試みるのが、以下の議論の目的です。


第一項:母親から受けた幼少期のトラウマ:彼女は、私が父親に蹂躙されるのを、見殺しにした。

親から受けた心の痛みということに関しては、実は、私は、父親よりも母親から強い影響を受けています。第三章で打ち明けた通り、私は、幼少期に、父親から殴られ蹴られ、毎日のように暴行を受けていました。母親から肉体的暴力を受けたことはありません。では、なぜ、母親からの影響の方が、父親からの影響よりも、私にとって、より深刻なのか?それは、母親が何もしなかったからです。私が、父親から暴行を受けて泣き叫んでいる瞬間、母親は、見て見ぬふりをした。彼女は、私を見殺しにしたのでした。

幼少期に、私は父親から、何百回と暴行を受けました。母親が、私と父親の間に立って、私を守ろうとしてくれたことは一度もありません。父親から暴行を受けている大半の時、私は自宅二階の子供部屋でせっかんされており、母親は一階の居間に身を潜ませていました。しかし、何十回かは、母親も同室で、私が殴られ、顔が腫れ、口の中を切って血を流しているのを彼女は目撃してきたのですが、彼女は、何もしてくれませんでした。ただ、無言で、私が父親に蹂躙されているのを、眺めているだけだったのです。何度か、私は、名指しで彼女に助けを求めました、「母さん、助けて!」と。それでも、彼女は、何もしてくれませんでした。

母親の無視は、筆舌し難いインパクトを私に与えました。まず、それは、私の本能的期待に反していたのです。例えば、ニホンザルの群れに、狼が侵入してきたら、サルの小さな子どもたちは、どのように守られるのでしょうか?サルの母親が、自分の胸元に子供を抱きかかえ、母ザルがその場を足早に立ち去り、子供を守ろうとします。そんな感じで、母親は子供を守ろうとする、子供は母親の腕の中に避難しようとする、それは、おそらく、霊長類に共通の本能です。人間の子供も、何か生命の危機がせまった際には、母親が守ってくれるものと、本能的に期待しているのです。

私(子供)が父親から暴力を受けている時に、私は殺されると感じていました。「母さん、助けて!」と泣き叫んでいるとき、それは、私(子供)が、私自身の命を、母親に託した瞬間です。私(子供)は、全身全霊を込めて、母親を信頼しようしているのです、「あなた(母親)なら、私の命を守ってくれようとするはずだ」と。

その本能的信頼が裏切られたのですから、それが、一体どれだけの衝撃を私に与えたのか想像できますでしょうか?その衝撃は、喩えれば、次のようなものになります。狼がやってきたときに、母ザルはいち早く姿をくらましてしまいました。野原で置き去りにされた自分(子ザル)が、狼と対面し、まさに、自分が今、食べられようとしています。そんな子ザルの戦慄を、私は、母親に見殺しにされる度に感じていたのです。

子供は、本能的な欲求が満たされない時、壊滅的な心の傷を受けます。お腹が減っているのに、親から食べ物を与えてもらえない、そんな時、子供は何を感じるでしょうか?寒くて震えているのに、親から衣類を与えてもらえないのなら、子供は何を感じるでしょう?

私(子供)は、父親の暴力にさらされ、生命の危機を感じていたにも関わらず、安全の欲求を、母親に満たしてもらえなかったのです。それは、ある意味、食べ物を与えられないということよりずっと深刻な、衣類を与えられないということよりずっと深刻な虐待を母親から受けていたと言えます。私(子供)は、生命を維持する欲求を、無視され続けたのです。

母親の無視は、私の本能的な安全の請求を裏切っただけではありません。父親の暴力にさらされて、既に絶望感を感じていた私を、更に、暗黒の底深くへと落としこませる結果になりました。

私(子供)が父親に殴られている時、「僕(加藤)が悪いことしたのだから、殴られて当然だな」と納得して、殴られたことは一度もありません。暴力を受けた全てのケースにおいて、私(子供)はなぜ殴られているのか分かりませんでした。

私(子供)の言動の何がしかが、父親の神経を逆なでして、彼の怒りを誘うのですが、私(子供)が何をしたのであれ、悪意をもって誰かを傷つけようとしたことは一度もありません。悪意があったのであれば、殴られても当然かもしれません。しかし、私には何の悪意も無かった。だから、何故殴られているのかは、理解できなかったのです。

例えば、夕食の開始時に、私が部屋で漫画を読んでいたために、食卓につくのが遅れたりすると、私は殴られたのです。それは、客観的には、私のせいで、他の家族たちを待たせてしまったという落ち度なのかもしれません。しかし、私(子供)としては、別段、意地悪く誰かを困らせようとしたのではありません。ただ、漫画に夢中になっていただけです。

ただの一度も納得して殴られたことはありません。毎回殴られるたびに、私は、「僕は悪くない」と唇をかみしめたのでした。ただ、父親に反抗すると、殴られる回数が倍になるだけなので、私は、無抵抗に、その「僕は悪くない」という想いを、自分の胸の奥にしまいこんだものです。

しかし、その想いをしまい込めばしまい込むほど、私の奥底で、「いつか、きっと、僕の立場や気持ちを分かってくれる人が現れてくれるはずだ」との期待が膨らみ始めました。「お前(筆者、加藤)は、悪くないよ。お前は、お前のままでいい」と、私を肯定してくれる人が現れてくれるのを、渇望するようになりました。

幼少期の当時、私(子供)は、次のような心境にあったわけです。私は、無実の罪を着せられた被告として、法廷に立っています。私は、悪事を働いた覚えは全くありません。しかし、検事(父親)は、顔を真っ赤にして怒りに震えながら、「この極悪人(私、筆者)を、極刑に処すべし!」と叫び、私(子供)を死刑にしようとします。

そのとき、私は、陪審員(母親)に一縷の望みを託します。「陪審員(母親)は、私(筆者)味方だから、きっと私を救ってくれるだろう」と。しかし、陪審員(母親)は、検事(父親)の主張に、だまってうなずくだけなのです。死刑が確定し、私は絶望します。「誰も、私(筆者)の無実を信じてくれない」と。

私(子供)と父親が対立していた瞬間に、第三者である母親が、何もしないというのは、私にとっては、彼女が父親の立場を容認したことを、意味しました。それが、どれだけ、子供である私の気持ちを傷つけたか、想像つきますでしょうか?「誰も、私(筆者)の気持ちを分かってくれない」「誰も、私(筆者)の立場にたってくれない」「私は、世界で一人である」「信用していい人など、この世には存在しない」「世界は、私を拒絶している」という想いが、私の奥底に刷り込みされてしまったのです。

暴力をふるう父親と、その暴力を見て見ぬふりをする母親、そういった両親の元で育てられた私は、極度の人間不信に陥りました。特に、女性恐怖症に陥りました。青年期に、女性とどう距離をとっていいかが分かりませんでした。片や、幼少期、安全の欲求を母親に無視されたために、逆にその反動として、女性の包容力で守って欲しいという願望が増大しました。簡単に言い換えると、人一倍、女性に甘える気持ちが強かったのです。「私(筆者)は、あなた(筆者の恋人)に全てを捧げるから、あなたも、私に全てを捧げて欲しい」という、濃密な恋愛を、青年期に何度も体験しました。お互いを貪るように求めあい、お互いの名前を泣きながら叫び合うように、愛し合いました。しかし、そんな濃厚な恋愛は、常に短期間で破局するのです。

女性に守られたいという願望を抱きながら、片や、女性を信頼しきれないのです。母親から何度も裏切られたため、恋人がいつか手の平を返したかのように、私(筆者)を見捨てるのではないかと、強迫観念に襲われていたのです。恋人を愛せば愛すほど、見捨てられることが怖くなり、私は、知らず知らずのうちに、恋人を試すことを、繰り返し行ったのです。例えば、恋人に分かるように、わざと、他の女性と仲良くして、恋人の反応を見たりとか。わざと、約束の待ち合わせをすっぽかしてみたりとか。恋人からすると、彼女がどんなに深く私のことを愛してくれても、私から100%の信頼を勝ち得ないことが分かり、そして、関係が壊れるのです。私は、20代に、そんな疲れてばかりの恋愛を、幾多も体験したのでした。

20代の時、私の人間関係は壊れていました。

20代の時、それが母親から受けたトラウマが起因していることは気づいていませんでした。第三章で述べた通り、父親の死からのショックから立ち直ろうと、私自身の潜在意識の解析をして、そのことが初めて分かったのでした、母親からも私は衝撃を受けていることが。その衝撃が、私の内側で、えも言われない、無意識の不信感や懐疑心を産み出したのは間違いありません。


第二項:子供は彼女の慰み者:彼女は、自身の孤独感を紛らすために、子供を利用している。

父親が死に、母親(父の死の当時、68歳)と長兄(当時、42歳、独身)が二人暮らしをしている時、幾度となく、家族会議で、次のことが話題になりました。「長兄が結婚でもすることになって、実家を出ることになったら、母親はどうするのか?実家で一人暮らしをするのか?」と。それに対する母親の立場は、常に明快でした。彼女は、いつも、こう言いました。「一人で暮らしたら、私は、寂しくて死んじゃうよ。誰かが同居してくれないのなら、私は生きていけない。だから、敏(長兄)が嫁さんをもらうのなら、この家(実家)に同居して欲しい」と。

そうです、母親は極度の寂しがり屋なのです。私の記憶にある限り、彼女は、ずうっと孤独感に苦しんできました。一人で居ることを極度に恐れ、誰か話相手がいてくれて、初めて安心できるのです。

そんな彼女にとって、新婚当時は地獄でした。父親と結婚して、二人は、東京都台東区浅草に居を構えました。なぜなら、東京の下町は、父親が手掛けた玩具卸業のメッカで、同業者が多数存在するのです。母親は、群馬県高崎市から上京し、非常に苦しみました。近所に知り合いが一人もいないのです。その点、父親は問題ありません。近所の同業者の知り合いと、毎晩のように飲み歩きました、母親を一人家に残して。

そして、父親は、近畿地区の顧客に新商品を見せるべく、彼は、毎月一週間、母親を残して、出張にでかけました。その間、彼女は誰とも話すことなく、ただもくもくと、問屋業の業務を父の代理でこなしたのでした。当時の孤独さを回想し、母親は今でも、「(当時は)地獄だった」と言います。

そんな彼女にとって、子供に恵まれてからは、三人の子供達(長兄、次兄、筆者は三男)が生きる希望になりました。彼女は全身全霊を込めて子供達を愛しました。その愛し方は鬼気迫るものがありました。濃密な母性で子供達を包みこんで、その中で彼女は幸福を感じるのです。

彼女にとって、また、子供達にとって、悲劇だったのは、それ以外の場所・方法で、彼女が幸せを見出すことが出来なかったことです。すなわち、彼女は母性の「巣」をつくり上げ、その「巣」に子供達を留めることにしか、幸せを見いだせなかったのです。

それだけ濃厚な母性に抱擁されたのは、子供時代は幸せでありました。しかし、私が成長するにつれて、それが自分に悪影響を与えるのが、自覚できました。彼女は、無言で、「私(母親)の巣から飛び立つのは許さない」というプレッシャーを、子供達に投げかけるのです。「私(母親)が、これだけ心血を注いで、お前たち(子供達)を愛してきたのだから、お前たちは私を愛さなければいけない」と、我々の愛を強要しました。

そして、「お前たち(子供達)を幸せにするのは、この私(母親)なのだ」と、子供達の生活に干渉もしました。例えば、高校時代、大学時代に、私が恋人と付き合いだすと、彼女について、母親は詮索するのです。そして、ある日、母親は、私の恋人をこう非難したことがあります。「お古をもらうなんて(僕よりも前に付き合っていた男性から捨てられた女性を、恋人として迎え入れたので)、お前にはプライドってものがないのかい?」と。母親は、私の恋人に嫉妬していたのです。

換言すると、母親自身は全く子離れする意志は無く、そして、子供が親離れすることを一切許さなかったのです。それほどの濃厚な母性にさらされ続けた我ら兄弟は、多大な影響を被りました。長兄も次兄も私自身も、普通の健全な女性付き合いが出来なくなりました。その影響について、これ以上の詳細については、ここでは割愛します。

第三項:強い被害者意識:彼女が不幸せなのは、全て子供達のせい。

母親にとって、彼女自身が不幸せな時、それを全て周りの人間のせいにしてきました。彼女は、現在の彼女の状況は、彼女が過去に下した選択の結果であるという発想を全くもっていません。

例えば、母親と同居している長兄が長い間独身でいた(彼は57歳で、2017年にようやく結婚)ことを、母親は嘆いていました。過去に、母親は、「早く孫の顔が見たい、早く結婚しなさい」と長兄にどやしつけていました。

しかし、そもそも、彼が人間不信に陥ったのは、彼の幼少期に、私と同じように父親の暴力にさらされて、その上、母親が殴られている長兄を見殺しにしたからです。そして、彼が成人後も、「私(母親)を一人にすることは許さない」と同居を強要し続け、彼が物理的に母親から独り立ちするのを妨げ、その結果、彼は精神的にも母親に依存する、マザコンともいえる精神状態に陥りました。彼は、実は、結婚後の今の時点であっても、普通に女性と接することが出来ません。彼が長い間結婚できずにいたのは、母親からの影響が大なのです。しかし、当の母親には、そんな発想は一切ないのです。

また、長兄が2017年に結婚した際、母親は長兄夫婦を実家に招き入れて、同居することを要求しました。それに、周囲の者は皆、私を含めて、反対しました。まず義姉(長兄嫁)がどんな人か良く分かっていなかった。長兄は秘密主義で、いわゆる「つきあっている」時期には、一切それを明かさず、結婚が決まって、初めて彼女を親に紹介したのです。

そして、長兄を溺愛している母親の性格からして、おそらくは、長兄をめぐり、義姉と母親で彼を取り合うような、疑似三角関係のような精神状態に陥ることは、容易に予想できました。同居すれば、義姉と母の間で軋轢が生じるのは、火を見るよりも明らかでした。

母親の要求に応じ、長兄夫婦と母親の三人での生活が始まると、義姉が母親をいびりだし、母親は鬱を患うようになりました。母親がつらい思いをしているのは、私は、ひどく同情しますが、しかし、それにしても、それは、彼女が自分で蒔いた種です。周囲の反対を押し切って、義姉を招き入れて同居を決めたのは彼女です。同居が彼女に苦しみを与えているのは、ひとえに、彼女の身からでたサビと言えます。もちろん、義姉の冷酷で残忍な態度が問題の中心でありますが、その状況は、母親が自ら招いたものです。

しかし、母親にはその発想がなく、今、長兄と義姉が母親からひどく非難されています。そして、その非難の矛先は、私にも向いています。「お前(筆者)が、私(母親)と一緒に日本で生活してくれれば、こんなことにはならなかった」と。母親が、長兄夫婦と同居せざるを得ないのは、彼女の視点からすると、私がアメリカで生活しているせいなのです。

全てを人のせいにするメンタリティーは、子供のメンタリティーであります。彼女は、精神的に全く自立していません。自分の行動に、自分で責任を取るという覚悟が一切ないのです。

父親の生前、母親の不幸せは、全て彼のせいにされていました。彼女が夫婦関係に満足できないのは、趣味が合わないからだと。母親が芸術の造詣が深いのに対し、父親が興味があるのは、酒、麻雀、パチンコ。父親は無口な上、ジョークのセンスを持っていないために、会話が楽しめないと。

父親の死後、母親の非難の矛先は、子供達(長兄、次兄、三男である筆者)に向けられています。特に、私に対して。上記したように、母親が今不幸せなのは、私がアメリカで、母親から遠く離れて生活しているからなのです。

母親(5人兄弟の次女)は、彼女の実家を出て、自身が核家族をつくりあげたにも関わらず、何世代にもわたった複数の家族が共同生活している、昔ながらの大家族での生活を望んでいます。母親が、その願いを託していたのは、長兄に対してなのではなく、この私(筆者)に対してでした。

母親は、子供達皆を溺愛していましたが、私に対するそれは、長兄に対するそれ、次兄に対するそれ、と比べものになりませんでした。三兄弟の中で、私を最も溺愛しているのです。昔も、今も、母親は、私が彼女と同居するのを望んでいます。私の家族、妻と娘、と共同生活するのが、彼女の夢なのです。

ですから、私のライフスタイルは、彼女の目には忌まわしく映ります。私が、日本に一時帰国し、母親と顔を会わせるたびに、私は、罵詈雑言を浴びせられます。親不孝だとののしられ、時には、「お前は、人の皮をかぶった悪魔だ」とまで言われます。

それは、私が日本滞在中に、私が何がしかの悪行を実際に彼女に働いて、彼女を傷つけているのではありません。実際は、その逆で、日本に一時帰国するたびに、私は母親を一週間ほどの旅行に連れ出し、孫である娘と楽しい時間が持てるようにしてあげて、その結果、母親のムードが好転します。帰国して顔を会わせると「死にたい」と泣いているのですが、旅行中にいつも、「生きる気力がわいた」と言ってくれるほどに、精気を取り戻します、私と家内と娘と楽しい時間を過ごすのを通じて。それでも、母親は、私を批判せずにはいられないほどに、じくじたる思いをため込んでいるのです。

さて、次の点は、私自身を弁明するために申しあげるわけではないのですが、重要な点だと思われますので、言及しておきます。私が、母親の希望をかなえるために、アメリカを引き上げ、日本に戻ろうという発想にならないのは、一重に、私自身の夢の基盤がアメリカにあるというだけでなく、私が彼女と共同生活を始めたところで、彼女の孤独感を埋めることが出来ないのが明らかだからです。

母親が孤独感に苦しんでいるのは、彼女の周りの者達の、彼女への配慮が足りないからなのではなく、彼女が、深層心理で「私(母親)は、誰からも愛されていない」と思い込んでいるからなのです。ですから、彼女との接触の中で、少しでもすれ違いがあろううものなら、彼女は、「私は嫌われている」という妄想の中に落ち込んでいくのです。そのため、誰が彼女と一緒に住もうが、誰がどれだけ濃密な人間関係を提供しようが、その妄想の中に居る彼女を救うことはできないのです。彼女が彼女自身の脚で立ち上がり、その妄想から抜け出る決意をしない限りは。しかし、上記したように、自立していない、メンタリティーが完全に子供である母親に、それは期待できないのです。


第四項:父親に刺した精神的止め:父親の癌闘病中、彼女は彼に生き残って欲しいとは思わなかった。

2002年8月初旬、父親が死ぬ2週間前、彼の医療費をどう捻出するかを議論するため、家族会議がもたれました。父親の肺がんは、診断がついた時点で、治療不能の末期癌というものでした。ですから、基本方針は、緩和治療をメインにそえることでしたが、しかし、一縷の望みを託し、様々な代替療法も導入して、癌そのものを克服することをあきらめていませんでした。

代替療法の一つ一つが高額ですから(例:リンパ球療法の点滴は、一回十万円、それを月に2、3度実施)、毎月の医療費が常に百万円を超えていました。それだけ高額の医療をずうっと継続できるはずもありません。入院3か月後に資金が尽きたので、どうするのかを家族で議論する場がもたれたのです。

それは、難しい判断でした、医学的データ(例:血中サイトカインのデータ)は、父親の自己免疫力が、少しずつですが上向いていることを示していました。ですから、当時の統合的治療を維持できたのであれば、もしかしたら、奇跡が起きるしれません。しかし、それをするだけのお金が無かった。では、どうするのか?

母親は、我々にこう言いました。「今のままの父さんが生き残るのなら、私は生き残って欲しくない。だから、今の治療は停止する」。そもそも、父親が生き残ることを、母親は望んでいなかったのです。

母親の言葉は、私(筆者)に衝撃を与えました。財政的に、当時の高額な医療を維持できないのは明確です。だから、それを打ち切らざるを得ないのは、同意できます。しかし、打ち切る理由が、お金が無いからなのではなく、母親が父親が愛していないから、というものだったのです。私は、「自宅を売ることになっても、彼を助けたい」と母親に言って欲しかった。実際に自宅を売れないのは、分かっていました。しかし、それだけの犠牲を払ってでも、父親を助けたいという気持ちは、見せて欲しかった。

父親と母親が、実は愛しあっていなかったという事実をつきつけられて、私の心に暗雲が立ち込みました。「父親と母親が愛し合っていないのなら、俺(筆者)という存在は、一体何なのか?」と、ひどく自分が価値が無い人間のように思えてなりませんでした。

自分が、愛し合っていない両親の子供であるのなら、たまたまセックスをしたら出来てしまった、自分が望まれない子供であるかのような気がしたのです。「子はかすがい」という諺がありますが、私という存在がありながら、父と母がいがみあっているのなら、なんか、私が「かすがい(材木と材木とをつなぎとめるために打ち込む、 両端の曲がった大きな釘)」としての機能を果たしていないように、思えてならないのです。当時、私は、どうしようもない嫌悪感に襲われました。自分自身に対して、そして母親に対して。

父の伴侶である母親が、「生き残って欲しくないから、お金は出さない」と言うのですから、私を始め、長兄も、次兄も、異論を唱えようがありません。子供たちは、絶句して、無言で同意しました。

そして、愚かにも、母親は、その家族会議の決定を、包み隠さず、父親に伝えました。「お金が無いよ。だから今の治療はもう出来ないから」と。それは、父親にとっては、死刑宣告に等しいものでした。事実、その後すぐに、彼は気が触れて、狂人になり、人格が破綻しました。

私が彼の傍によっても、彼は私が息子だと認識できません。私の顔を見て、「お前(筆者)は誰だ?」と彼は私にたずねます。それほど、彼の人格は壊れてしまったのです。その約一週間後に、彼は死去しました。母親が、彼に、精神的な止めを刺したと言っても過言ではありません。

私の幼少期に母親から沈痛なるトラウマを与えられ(第一項)、彼女の孤独を癒やすために利用され(第二項)、彼女の不幸せを私のせいにされ(第三項)、母親が父親を愛していなかったことが明らかになり(第四項)、私は筆舌に耐えがたく、悲しくなり、そして、いつからしかか、母親に対して激烈なる怒りを覚えました。私は、彼女を嫌いだし、怒っているし、憎んでいるし、恨んでいます。彼女の顔を見たくないし、口もききたくありません。

しかし、私の彼女の憎しみは、さわれば火傷するほどに、燃え盛っているものではありません。それは、憎しみと呼べるけれども、冷めているものです。本節冒頭で触れた通り、私は母親を憎いと思っていても、復讐をしたいという気持ちは微塵もなく、彼女の反省を促したいとか、謝罪を要求する気も一切ありません。

私の意識は、憎しみを超越しているがゆえに、憎しみに支配されることが無いのです。ですから、私は、母親と口を利きたくないと思っているかたわら、彼女との会話を楽しんでいます。日本に一時帰国したおり、彼女を温泉旅行に連れ出し、昔話を楽しく交わしている自分が存在します。顔を会わせると、予想通り、私は彼女の批判の的にされます。彼女の不幸せを私のせいにされて、私は腹が立ちますが、だからといって、彼女を攻撃しようという気は全くおきません。彼女の罵倒を笑って聞き流している自分がいます。

私は、母親を嫌いで憎んでいるのは事実です。しかし、私は、彼女と幸せな時間を共有できます。どうしたら、そんな状態が可能になるのでしょうか?

親への愛と、親への憎が入り乱れている状態、というのは、普遍的で誰にもありえる状態です。100%親を愛している子供もいなければ、100%親を嫌悪している子供もいません。両方の感情がもつれていても、それで普通です。

しかし、相反する気持ちが交錯すると、我々は苦しみを感じますよね?車で喩えれば、それは、アクセルとブレーキを、思いっきり同時に踏み込んでいるような状態に相当します。そんなことをすれば、車のエンジンや車体に、ものすごい負担がかかりますよね?それと同じように、親に近づきたいという「力」と親から遠ざかりたいという「力」が同居しているのなら、我々の精神は疲弊するのです。

しかし、私の内側では、その相反する感情が、調和をもって統合されており、それで、私が苦しむことはありません。私は、どうやってそんな精神状態にたどり着いたのか?それを本章次節、及び、次章と次々章で述べていきます。


第四節:私は感情ではない。

私は、過去15年以上、精神修養の訓練を積んできて、精神覚醒を遂げました。基本的に、私は変性意識状態にあり、日々を過ごしています。変性意識状態、すなわち、俗に言う「悟り」の状態にあるとき、感情が私を支配することはありません。

それは、感情を感じないということではありません。私は、ロボットのように、血も涙もなく、何も感じないということではありません。物事が自分の予期したように動かなければ、苛立ちを感じますし、誰かに非難されれば悲しくもなりし、誰かが私の娘をひどく傷つければ、その者に対して憎悪も湧きます。前節でも触れた通り、私は、母親からひどい仕打ちを受けたために、私は、彼女を嫌悪していますし、憎んでいます。

しかし、私がそういった感情に支配されることはありません。母親を憎んでいるからといって、彼女に謝罪させたいとか、彼女に猛省させたいとか、彼女に態度を改めさせたいとか、私が彼女によって傷つけられたということを彼女に理解させたいとか、そういった気持ちは微塵もありません。私が彼女に望むものは一切ないのです。

この心境は、一流のアスリートが、ここ大一番の決戦の時に、緊張しているけれども、その緊張を心地良く楽しんでいる状態に相当します。例えば、冬季オリンピック、
フィギアスケート決勝、フリープログラム最終滑走。そこで実力を出し切れば、金メダルが取れる、そんな状況。例えば、メジャーリーグベースボール、ワールドシリーズ、第七戦、九回裏で、ツーアウト、ランナー2、3塁。点差は1点。打者がヒットを打てば、逆転優勝。ヒットを打てなければ、それで敗退。そんな状況。

そんな状況で活躍できるアスリートは、そんな状況でも平常心を保てます。それは、その状況の重要さが分かっていないということではない。重要さが分かるからこそ、緊張している。しかし、どうゆう分けか、緊張感を超越していて、緊張感を隅において、それを楽しんですらいる。そして、最高のパフォーマンスを発揮できる。逆に、その緊張感に支配されている選手は、呼吸がみだれ、身体がカチコチになり、意識が会場の喧騒の中を拡散してしまって、プレーに集中できなくなり、乏しいパフォーマンスで終わってしまいます。

緊張を楽しんで平常心でいられるアスリートのように、私は、母親への怒りや憎しみを感じているのだけど、それを隅において、平常心でいられるのです。それは、怒ってないということではない、憎んでいないということではない、怒りも憎しみも、事実として、私の内側に存在しているけれども、私の意識は、それらを「超えて含んでいる」状態なのです。

私は、精神修養の訓練を通じて、「本当の私」(真我、魂)を実際に体験し、その実体験により、自分が魂そのものであることを確信している状態にあります。私は、「本当の私」を知っているがゆえに、「感情」が「私」でないことを知っているのです。

私の意識は、「感情」を超越しているがゆえに、母親への憎しみで、私自身が操られてしまうことはないのです。私の行動原理は、「感情」にはありません。私の行動原理は、魂にあるのです。

それがどんな状態であるのかを、喩えで説明しましょう。感情の動きを川の流れだと思ってください。怒りや恨みなどの強い感情を、大きな山の切り立つ岩場の傾斜を流れる激流だと思ってください。リラックスして安堵感を感じている時は、それが、広い平野をゆっくり進む川の流れだと想像してください。

この例に沿っていうと、「魂」とは地球そのものです。私の意識が地球全体に拡散し、地球全体に私の意識が充満し、「私とは地球そのものだ」と感じられるのです。自分自身が、実感として、地球そのものだと思えるのなら、地球の表面で発生している川の流れが、それが激流であろうが、それが濁流であろうが、それが穏流であろうが、地球はそれが気になりません。

そのような感じで、私の意識は、通常魂と同調しているので、感情のうねりは、全て私の精神の表層で起きていることのように、私には感じられるのです。ですから、特定の感情によって私が占拠されて、その感情に振り回されるということが無いのです。

魂と同調しているのではなくて、通常の意識状態にあるのなら、意識が「感情」にくぎ付けになってしまいます。これは、川の例でいうのならば、激流の間近に身を置いて、岩をもくだくその流ればかりを見て、爆音ばかりを聞いていると、やがて、意識がその中に吸い込まれっていって、激流の中に巻き込まれていって、自分が粉々に砕かれるように感じて、恐怖すら感じてしまう。この状態が「感情」に支配されている状態です。

多くの人にとっては、意識が魂と同調することなく、「感情」にくぎ付けになっています。そうすると、やがて、自身を「感情」と自己同一化(identification)するようになり、「感情」を自分自身だと勘違いするようになります。

例えば、あなたが親に強い怒りを感じている瞬間、とてつもなく暴力的な波動があなたの内側から外側に向かって弾けようとします。その波動の爆発、そのものを、あなたは、無意識の内に、あなた自身と同一化するのです。「怒り」=「あなた」と感じられています。ですから、この時、「怒り」は、あなたにとって、生理現象のように、自然なものに感じられてしまいます。あくびがでそうになれば、何の疑問も持たずに、あくびをしますよね?

それと同じで、怒りと同一化されているがゆえに、あなたは何の疑問もなく、その怒りの波動を発散するのです。とても辛辣な言葉(「バカヤロー、死ね、このクソ婆!」)を親に浴びせたり、目の前の机を思いっきり叩いて退席したり、床を思いっきりけったり、側にあった新聞を引きちぎったりします。この瞬間、あなたは、怒りの波動が弾けるのに即した言動をとっているのであり、あなたの「感情」があなたを支配しているのです。

繰り返しますが、私は、「本当の私」(魂)を知っているがゆえに、私が「感情」ではないことも知っているのです。ですから、「感情」が私を支配することはありません。もちろん、強い「感情」が私の心をかき乱す瞬間が、全く無いと言ってしまえば、それはウソになります。私であっても、強い「感情」が湧き、それに揺さぶられることはあります。

しかし、そんな瞬間を、私はすぐに自覚できます。「感情」に揺さぶられているのは、私の意識が魂から乖離し、「感情」の中に落とし込まれてしまった証拠です。私は、すぐに、その状態に気づき、それを修正できるのです。意識を、「感情」から魂に戻し、すぐに落ち着いた状態になれるのです。過去の精神修養の結果、瞬間、瞬間において、私の意識が、どこにあるのか、それが分かるのです。拡散して魂と同調しているのか、「感情」にくぎ付けになっているのか、それを瞬時に感じ、後者から前者への意識変換を即座に行えるのです。

ですから、私の行動原理は、私の「感情」にはありません。私の行動原理は、私の魂にあります。例えば、私が日本に一時帰国し、母親に会い、母親を温泉旅行に連れ出している時に、私は、母親を喜ばそうとか、楽しんでもらおうとか意識はしていません。何かを意図したり、目的意識をもって、母親と行動を共にしようとは、思っていません。

魂は、「調和」を望みます。春の野原で、川のせせらぎの音と、小鳥のさえずりが、絶妙のハーモニーとなり、あなたの耳に心地よく響く、二つの音の「調和」、そんな「調和」を、魂は望んでいます。

ですから、私が母親と日本で顔を会わせるときは、お互いの波動に、私はただただ従います。お互いの波動にぎくしゃくとした、きしみのような感覚を感じれば、私は、自然と落ち着いた時間をもったほうがいいように感じて、母親とお茶をしてゆっくりとする時間を持ちます。すると、彼女が最近体験したつらいことをしゃべりだし、しゃべりきった後に、彼女も、その「場」も、すっきりとします。

また、例えば、会った時に、お互いの波動が、小躍りするような躍動感を感じられるのであれば、私は、外に母親を連れ出し、何がしかにチャレンジします。母親が躊躇するのを聞き入れずに、海辺の遊覧船に皆で乗ったりすると、乗船後に、「この年になって、こんな遊覧船に乗るなんて思ってなかったよ。楽しめた」と言ってくれたりします。

私は、私自身を「感情」にまかせたりせずに、私自身を「理屈」にまかせたりせずに、私自身を魂に委ねることで、お互いの存在が「調和」している瞬間を、母親と楽しむことが出来ます。

物事を、ごく自然に、無理することなく楽しめている状態、それを、世間では、「フローに乗る」と呼びます。私は母親との関係において、フローに乗ることが出来ます。もし、「フローに乗る」ことにご興味があれば、私が記したフローに関する一連のエッセーをご参照ください。

私と母親との関係において、根本的な問題は何一つ解決していません。前節で述べたように、私は母親を恨んでいます。そして、それと同様、母親も私を恨んでいます。彼女は、私の家族(私、妻、娘)と一緒に生活を望んでいるにも関わらず、私はアメリカで生活をすることを選んでいるからです。お互いに恨みあっている、しかし、それであるにも関わらず、我々は、お互いに一緒に時間を過ごせば、「調和」した瞬間を楽しめるのです。

私は、彼女の望むライフスタイル(大家族の中で共同生活をする)を提供してあげることは出来ていません。そのことで、彼女は私を恨んでいる。しかし、私は、彼女に、至福の瞬間を、提供しています。腹の底からお互いが笑えるような。そんな瞬間を彼女と過ごすことで、少なくとも、彼女に、「生きていれば、いいことがある」と感じさせてあげて、生きることの希望を与えてあげることは出来ています。それが出来るのは、私が「本当の私」(魂)を体験しているからです。

次章において、魂を体験することのベネフィットの解説と、魂を体験するためには、何を心掛ければいいかを説明します。

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