エッセイ58 (2018年4月30日著)
たかが親、されど親
魂の観点から見た、親子関係の考察
親を失う痛みを乗り越えるために
著者:加藤優
第六章:本当の自分を知る
あなたの親が他界し、心をえぐられるような苦しみを味わっているのなら、もしくは、あなたが親との憂鬱な軋轢にあり、意気消沈しているのなら、あなたが、「本当のあなた」(魂)を体験することで、その苦しみや痛みを克服することを、私は勧めています。あなたが「本当のあなた」を知るのなら、それが可能なのです。それを伝えるのが、このエッセーの目的です。
第一節:本当の自分を知るメリット
なぜ、「本当の自分」(魂)を知ることが、親子関係における苦しみを超越できるのか、その理由を、私は三点あげます。
まず、一点目は、既に前章第四節で提示しました。ここで、再びその要点を述べます。「本当のあなた」とは、「感情」を誕生せしめている精神の基盤です。空に浮かぶ雲が個々の「感情」であるのなら、地球全体を取り巻く大気そのものが「魂」です。大気中の目に見えない水蒸気が、雲になります。あなた自身が大気そのものであることを味わうと、大気中にどんな雲がただよっているのかが、気にならなくなります。それと同じように、無限に広がった精神が、あなた自身であることに気づけば、親に対して抱いている怒りや憎しみに惑わされることがなくなるのです。あなたは、「本当のあなた」を知り、あなたは「感情」ではないことを知り、親への憎しみを超越し、平常心で親と相対することができるのです。
次に二点目、あなたは、「本当のあなた」を知ることで、自己定義を刷新するのです。あなたはあなた自身を雄大で力強い存在として感じるようになります。すると、親に守ってもらおうという無意識の欲求が霧散していき、親を必要とする「力」が弱まっていくのです。そうなれば、親を失う痛み、親が理解してくれない痛みが軽減していきます。
第四章にて、親を失う時の過剰反応が起きる理由として、あなたが潜在意識において、あなたが自覚しているよりも強く親を必要としていることを指摘しました。具体的には、あなたは安全を感じるために親を必要としている、あなたが幸せであるために親の幸せを必要とし、あなたの心の穴を埋め合わせるために親子関係をやり直すことを必要としている、それらを指摘しました。あなたが親を必要としている「力」が、あなたの無意識の領域でありありとうごめいているがゆえに、あなたは親を失うのが耐えられないのです。
その親を必要としている「力」は一つの前提の上に立っています。それは、あなたが、あなた自身の存在を、小さく、か細く、脆弱で、愛されない存在だと、定義付けしていることです。あなたは、あなた自身を「吹けば飛ぶような存在」と思っているがゆえに、知らず知らずのうちに、親にすがりつこうとするのです。否定的な自己定義によって、親を必要とする「力」が強化されていると言えます。
あなたのこれまでの人生において、親から罵倒されたり、教師からバカにされたり、友人づきあいがうまくいかなかったりして、愛する人や信頼する人から拒絶されると、まるで、群れからはぐれた子羊のように、あなたは、あなた自身が居るべ場所から切り離されたように感じて、自分自身をか弱く、小さい存在として感じてしまうのです。この感覚が潜在意識に刻まれてしまうと、あなたは、本能的に親に守って欲しいと感じてしまいます。これが、潜在意識での親を必要とする「力」、親から好意を受け取りたりという無意識の「願望」になります。
あなたが、「本当のあなた」を体験すれば、あなたは、あなた自身を、無限に広がった精神のフィールドとして認識するようになります。宇宙全体にあなた自身が広がっており、宇宙のどこを見渡しても、「あなた」で満ちており、宇宙のどの空間を切り取っても、そこに「あなた」があります。あなたは、あなた自身を、それだけ大きく広がって行き渡った存在として感じるのです。あなたは、あなた自身を雄大に感じますので、どんな脅威がせまっているのだとしても、あなたは安心できるようになります。そして、親に守ってもらう必要性が無くなるのです。すると、親を失うこと、親から非難されることが怖くなくなります。
最後に、三点目、あなたが「本当のあなた」を体験すると、あなたの意識は、非二元意識(Non-duality)と呼ばれる、高次元の意識状態に移行していきます。この意識状態になると、誰か他の人から愛されないということが怖くなくなります。仮にあなたが親から愛されなかったとしても、それが問題ではなくなります。親の無理解、親との別離、それらがあなたにあたえるショックが軽減されます。
非二元意識の中に入ると、そこでは、主体と客体が存在しません。行為者と被行為者が存在しません。あなたは「誰かを愛する者」、もしくは「誰かから愛される者」として、存在しているのではないのです。あなたという存在は、愛を与える者でもなければ、愛を受け取る者でもありません。あなたは、愛することを可能たらしめるポテンシャル、もしくは、愛する「能力」として存在しているのです。あなたは、無限に広がる愛の「波動」として、存在しているのであり、それが「本当のあなた」であるのです。
ですから、あなたがそれを体験するのなら、誰かから愛されるためにもがき苦しむ必要が無くなるのです。なぜなら、あなたという存在は、「愛」そのものだからです。あなたが、炎そのものであるのなら、暖を求める必要があるでしょうか?あなたが水そのものであるのなら、乾きを癒やそうとする必要があるでしょうか?
あなたは「愛」そのものだから、それを求める必要が無いのです。あなたが愛されたいと願うとき、それは、自我(ego)が作り上げている幻想なのです。
非二元意識の精神状態は、仏教が「一なるもの」と表現するものです。簡単に言えば、全てのモノは、全て根っこの部分で繋がっているので、分離した幾つものモノなのではなく、一つのモノとして存在しているということです。地球上の全ての人間も、別々の存在なのではなく、一つの存在であると。それを実感している精神状態が、非二元意識と呼ばれています。万物を分離した状態としては見ない味方、それが非二元意識です。客観的でも主観的でもなく、そもそも見ようとしていない状態、それが非二元意識です。
「全ての人間が一つの存在である」という状態は、個々の人間を波動として捉えると、それがしか理解できます。量子力学が指摘する通り、万物は波動です。一人の人間は、無数の周波数が束ねられたバンドとして存在しています。端的に言えば、私(筆者)は音であり、あなた(読者)も音であり、あなたの友人の一人一人も音なのです。ここで、立ち止まって、次の質問について、思索してみてください。「あなた(読者)が音であるのなら、何があなたという音を鳴らしているのか?あなたという音の音源は何なのか?」と。
非二元意識に入ると、その質問の答えが見えてきます。人間という「音」の「音源」が開示されて、あなたはそれを体験できるようになるのです。すると、私(筆者)という「音」の「音源」と、あなた(読者)という「音」の「音源」が全く同じものなのであることが分かります。全ての人間の「音」が同じ「音源」から創生されていることが分かり、全ての人間が一つであることを納得できるのです。
個人ともう一人の個人の差は、ちょっとした周波数の差でしか過ぎないのです。それを理解するのに、次のような光景を想像してください。夕刻時、太陽が地平線に沈むとき、地平線と太陽の周辺はオレンジ色に輝き、天空は紫がかった青い色を帯びています。オレンジ色に輝く領域と紫色に輝く領域は、お互いに独立して分離した存在なのでしょうか?
違いますよね?両者は、光として、分離しがたい、一つの存在であります。なぜなら、両者の源は太陽だからです。太陽光の特定の周波数領域がオレンジ色に輝いているのであり、太陽光の別の周波数領域が紫色に輝いているのであり、両者は見かけは違いますが、分かちがたい一つの存在なのです。
それと同じように、個人個人の見かけ上の差、例えば、身体の特徴の違い、性格の違いは、究極的には、ちょっとした周波数の差でしかありません。肉体も波動であり、精神も波動です。その波動の源は同一なのです。上記の夕焼けの光景でいえば、あなたがオレンジ色の光であるのなら、あなたの友人は紫色の光なのです。両者の光は、それで一つの存在であります。
このことが分かると、誰が誰をどのように愛するのかという議論が意味をなさなくなります。人間は皆一つだからです。あなたが誰を愛するのか、誰があなたを愛するのかを気にかけるのなら、それは、あなたの手の平の親指が、「果たして人差し指は、私(親指)を愛してくれるだろうか?」と気に病むようなものなのです。親指も人差し指も分離されていない一つの存在です。であるから、どちらがどちらをどれだけ愛しているのかを気にすることは意味が無いのです。だって、両者は一つですから。
非二元意識を体験し、「一なるもの」を実感すると、愛されない不安を超越します。そうなれば、親子関係での苦しみ、すなわち、「親が私を愛してくれない」という嘆きを克服するのです。
さて、本章のここまでの議論において、あなた(読者)は、次のように反論するかもしれません。「加藤さんは、とどのつまり、悟りの境地に達すれば、親子関係の問題で苦しまなくなる、と言っているのである。私(読者)は、加藤さんのように何年も精神修養の訓練をしてないから、私はその境地にたどり着けない。加藤さんのアドバイスそのものは理解できるが、今の私には、あまり役に立たない、私は、今、親子関係で苦しんでいるのであり、その苦しみからそれがしか解放される変化を、今、体験したいのだ。」と。
ここで、次の点をご理解ください。私が上記で指し示している、「本当の自分」を知ることで得られる三つのメリット、(1)感情を超越すること、(2)自分を雄大だと感じて親の助けが必要でないと自覚できること、(3)愛されない恐怖を超越すること、それらのメリットは、悟りの境地に達しないと得られないということはありません。悟りの境地を「目指す」のなら、その過程で、それぞれの時点で、それ相応のメリットを得ることが出来ます。
悟りに至るまでの過程がフルマラソンであるのなら、42.195kmを完走しないと、マラソンのメリットを得られないということはありません。1km走れば、1km走ったことでのメリットがあり、10km走ったのなら、10km走ったことでのメリットがあります。
野球をする楽しさで喩えるのなら、私は、プロ野球の選手になれるぐらいのレベル(悟りのレベル)にならないと、野球の楽しさを味わえない、と言っているのでは無いのです。初心者には初心者の楽しみがある。草野球には草野球の楽しみがある。ただ、私が強調したいのは、野球を心底楽しむためには、「プロ野球選手のようにうまくなりたい」という向上心を持って欲しいということです。私は、その向上心の必要性を強調しているのです。その向上心さえあれば、あなたが実際にプロ野球選手になれるかどうかは、あまり問題ではありません。向上心さえあれば、あなたがどのレベルでプレイしても、充足感を得ます。
1km走れば、1km走ることのメリットを実感できる。プロ野球選手になれなくても、向上心をもって臨めば、野球を心底楽しめる。それと同じように、あなたが「本当の自分」を体験しようと臨むのなら、その神髄を味わうことが無くても(悟りの境地に達しなくても)、それがしかの解放感を味わえることを、私は強調したいのです。
以下に、あなたが「本当の自分」を体験するのに、心がけて欲しいことを二点述べます。それらをどうか実践して見てください。実践していただければ、最初の1時間で、あなたの心がそれがしか軽くなるのを感じて、変化を実感できるはずです。以下、親子関係における問題を克服するための、その文脈での、「本当の自分」を知るのに必要なことを述べていきます。
第二節:「本当の自分」を知るための実践その1:親に対するありとあらゆる感情を許容する
あなたが通常の意識を働かせるなら、すなわち、考えを巡らせるのなら、その瞬間に、「本当の自分」(魂)は、無意識の奥に封印されてしまい、あなたは、それを感じることが出来なくなります。
「本当の自分」(魂)を浮上させて、それを感じることが出来るようになるには、心が完全に自由である必要があります。「心が自由」な状態とは、あなたの心を律しよう(制御しよう)という力が一切無い状態です。あなたの感じ方、もしくは考え方について、「かくあるべし」という制限が無い状態です。それ、すなわち、あなたが何を感じようが、何を思うが、何を考えようが、それを無制限で許容することです。
例えば、一般的に、怒りは感じるべきではない感情として考えられています。ですから、怒りを感じた際には、何とかかんとか、怒りを抑えようとします。しかし、怒りを制御しようとすると、そのことによって、あなたはあなたの魂から乖離してしまいます。怒りを制御しようとするのではなく、怒りを許容しようとするべきなのです。
あなたが特定の相手に対して怒りを感じているのであれば、あなたがそれを感じるのを「許す」のです。怒りを「許す」とは、その怒りを実際に口に出して、その相手にあびせかけていいと言っているのではありません。その怒りを実際に態度で表わして、その相手を殴りつけていいと言っているのではありません。あなたが怒りを表現するというよりは、「怒り」そのものが、それ自体を表現することを許すのです。
「怒り」のエネルギーが真っ赤に燃え盛る光であるのなら、その真っ赤なエネルギーが、それ自体が望むように動いたり、膨張したりするのを、許すのです。その真っ赤な光が、あなたの内側で、お腹から頭に向けて動きたいのなら、それが動きたいように動くのを許してあげる。その真っ赤なエネルギーが膨張したいのなら、それが膨張するのを許してあげる。あなたの内側で、それがやりたいように駆けまわるのを、許可するのです。そして、あなたがそれを実感するのを許すのです、「あー、私(あなた)は、すごく、怒っているわ」と。
もし、その「怒り」の真っ赤なエネルギーが、特定個人を攻撃して、その人を粉砕するのを望むのであれば、想像上、そうすることを許してあげてください。あなたは物理的・実際的・肉体的・直接的に、その人を攻撃しない限り、何をしてくれてもかまいません。例えば、枕にその人の名前を書いて、その枕を思いっきり殴りつけるとか。そういった行いは、禁止されるべきことなのではなく、精神衛生上、あなたはそれをするべきなのです。
あなたの内側で、ありとあらゆる感情が、完全に自由に動けるようになると、魂が浮上し、魂が全ての感情を抱擁して、やがて全ての感情が統合されて、穏やかで静かな状態に落ち着きます。そして、凪をうったように、心が完全に静かになった瞬間、それは、あなたは「本当のあなた」を体験している瞬間なのです。
我々は、しつけや教育の中で、「感情的になるな」と指示を受けるのですが、それは魂を殺す指示なのです。あなたが、「本当のあなた」を見失いたいのなら、その指示を受け入れてくれてもかまいません。しかし、感情的になることを「許す」こと、それが魂と接近することの必要条件であること、どうかご理解ください。
親子関係の文脈で言うのであれば、あなたがあなたの親に対して、どんなにネガティヴな、否定的な、陰惨な、気持ちや感情や感慨や考えを抱いたとしても、それを「許す」のです。すると、あなたは、魂を体験します。
親に対する否定的な感情を「許す」のに、具体的に何をするかについては、私が提供するワークショップ「老いてゆく親を見つめるための霊性」もしくは「形而上学101」の親子関係に関する回の中で、紹介します。詳細はそられのワークショップをご参照下さい。
本エッセー本節では、次の二つの過程について、その概要を説明します。
(1) 親に対する否定的な感情を「許す」過程その1:瞑想でのアファーメーションにより、自分にその感情を許可する。
あなた自身の方法により、瞑想状態に入ってください。(注:瞑想状態になるのにはどうしたらいいのかについては、筆者加藤に直接お問い合わせください)。そして、次にあげる文章を、自分自身に対して、気持ちを込めて、ささやきかけます。以下にあげる文章は、アファーメーションの一例でしかすぎません。
・「私は、父親の人を小バカにする態度が嫌いだ。私は、彼が大嫌いだ。私は、彼への嫌悪感を許す。私は、彼を嫌っていい。私は、彼を嫌っていい。それでかまわないのだ」
・「私は、世間体ばかりを気にかける母親が大嫌いだ。彼女が私に指示を出すとき、それは彼女が世間に対して、いい格好をするためのもので、私の感情は完全に無視している。私は、彼女の顔を見たくも無い。私は、そう思っていいのだ。母親に近づきたくない、私がそう思うのも当然だ。そう思ってかまわないのだ。」
上に挙げたような文章を何種類も用意し、そして復唱を何度も繰り返せば、やがて、あなた自身の意識が拡張し、あなた自身が大きく広がったように感じ、あなたの内側が穏やかさと柔らかさに満ちたようになっていきます。
もし、上記のようなアファーメーションを行う過程で、何がしかの抵抗感が芽生えたのなら、是非、筆者加藤に直接ご相談ください。例えば、もし、幼少期に父親から虐待されたために「父親には逆らえない」というような感覚が潜在意識に刷り込まれているのなら、上記の「父親を嫌っていい」と言葉にすると、あなたの内面で、何か悪いことをしているかのような躊躇感が芽生えるかもしれません。躊躇感が芽生えたのであれば、それは、幼少期の心の傷がまだ癒えていないことを意味しますので、その傷のケアが必要であります。
(2)親に対する否定的な感情を「許す」過程その2:親への怒りを実際に口に出して叫んでみる
これを行う時は、誰か聞いてくれる人が居る状況でやったほうが、効果的です。誰か好意的に、あなたの感情を理解してくれる人に協力してもらって下さい。その人の前で、出来る限りの大声で、あなたの親への不満、うっぷん、怒りを叫びます。
例えば、あなたの親があなたの子供の教育方針について、あれやこれや口出しをしてきて、あなたがそれについて、物凄くイラついているとします。そんな時は、次のような言葉を叫んでみてください。
「うるせー!いちいち、うるせえんだよ!このクソばばあ!お前の言っていることは理想論なんだよ。うるせえ!うるせえ!うざいんだよ、このバカやろー!私の息子は、お前の指示なんて、全然必要じゃあねんだ。もう二度と、息子のことで口にするな!このバカやろー!」
そういった言葉を、お腹の底から、可能な限りの大声で叫ぶのです。
「こんな汚い言葉を使ったら、私(あなた)の品性疑われるんじゃないかしら?」と気に病む必要は全くありません。使う言葉は、汚ければ汚いほど、心理的な解放間が大きいものになります。ですから、あなたの母親への怒りを吐き出すのなら、彼女のことを、「クソばばあ」とか「守銭奴」とか「淫乱女」とか、呼んでください。あなたへの父親のことは、「クソじじい」とか「インポ野郎」とか「ケツの穴の小さいクソ野郎」とか、呼んでください。
是非、お試しください。あなたが親から受けた抑圧、その重みが、叫びと共に飛び散っていって、解放感が味わえます。その解放感たるや、まるで、自分自身が100倍ぐらい大きくなったように感じられ、内側の生命力も100倍ぐらい増幅されたように感じられる、とてつもない変化です。
この過程を行う上での注意事項は、あなたの親本人に、あなたの叫びを聞かれないことです(笑)。
第三節:「本当の自分」を知るための実践その2:親を特別視しない、親から特別視されることを期待しない。
前項でも指摘した通り、あなたが、「本当のあなた」(魂)を体験するためには、あなたの心が自由である必要があります。「心が自由」であるということは、何の前提も持たないということです。とある対象が「○○であるべき」という思い込みが微塵も無い状態です。特定の凝り固まった見方で、その対象を見ないということです。
例えば、あなたが、次のような実験をしているのを想像してください。あなたは目隠しをしています。あなたの友人が、あなたの手に何かを握らせました。目隠しを取って、それを目にすると、あなたが握っているものは、ソフトクリーム(に見えるもの)でした。
それが、どこからどうみても、バニラ味のソフトクリームにしか見えませんから、あなたは、それを「冷たくて、甘くて、ミルクのうまみがする」というものだと思い込みます。この瞬間、実は、その前提があなたの心を占拠しているのであって、あなたの心は自由ではないのです。実は、この瞬間、あなたは、凝り固まった見方で現実を見ているのです。
「自由な心」は、この例で言えば、手の内の「それ」について、次のような見方で見ます:「これ自体を実際に体験してみないことには、これが何であるかは分からない」と。「自由な心」は、その対象についての、ありとあらゆる可能性について、開かれています。
例えば、それは、アイスクリームではなくヨーグルトかもしれない、それは実は豆腐かもしれない。もしかしたら、それは冷たく冷やしたシェイビングクリームかもしれません。それが何でもあってもかまわないと、それを受け入れる心の度量がある状態、それが「自由な心」です。実際にそれを体験してみて(食べてみて、触ってみて、匂いをかいでみて)、それが何であるかが判明するまで、それが何であるのか分からないという、未知の状態を許容できる度量(それが何であるか分からないけど、まあいいやと思える度量)が、「自由な心」です。
そんな風に心が自由でないと、我々は魂を体験することが出来ません。逆に、心が自由であるのなら、何もしなくても、魂が自然と浮上してきて、それを感じることが出来るようになります。
では、私はここで、あなたに問います。親子関係において、あなたの心は自由でしょうか?何の前提も抱かずに、親のあるがままを、見つめているでしょうか?
否!あなたの心は自由ではないですよね?違いますか?あなたは、いくつもの前提や思い込みを通じて、親を見つめているはずです。例えば、
・親は、私を育てるにあたり、物凄く努力をし苦労をしてきた。私は、その苦労に報いなければいけない。(親=あなたが感謝する対象)
・親は、私より人生経験豊富で、そこから私が学ぶべきものがある。私は、親のアドバイスに耳を傾けなければいけない。(親=あなたの人生の指導者)
・親は、家族のリーダーであり、家庭で発生する事項についての責任者である。私は、親のリーダーシップに従わなければいけない。(親=リーダー)
・親のリーダーシップが機能しない場合、家庭は崩壊してしまう。であるから、私は、親のリーダーシップに敬意を示さなければいけない。(親=敬意の対象)
・親は、私に信愛の情を向けてくれている。であるから、私も信愛の情を向けなければいけない。(親=愛する対象)
上に代表的な前提を挙げました。あなたは、そういった前提を通じて、あなたの親を見つめているはずです。実は、あなたは、あなたの親をかなり凝り固まった見方で見ているのです。
あなたは、そのことに無自覚であるはずです。なぜなら、それらの見方は、儒教色が色濃く反映された日本文化を通じて、あなたの内側で、ゆっくりと醸成されたものだからです。あなたは、無意識の内に、ごく自然に、あなたの親を、何か特別で大切で尊い存在だとして見つめているのです。
あなたがそのような見方で親を見つめるのなら、あなたの魂が浮上することもありません。あなたの魂が親子関係を導き、親子関係に深い幸福が、魂によってもたらされることもありません。あなたが、上であげたような前提を持ち続けるのなら、魂が、あなたとあなたの親を祝福することもありません。(注:より正確に言うのなら、魂は、常にあなたとあなたの親を祝福しているのですが、上記の前提を持つのなら、あなたは、それを感じることが出来ないのです)。
そうではなく、ありとあらゆる前提を捨象して、あなたの親を、単なる一人の人間として見つめるのです。その時、出来る限りの前提を捨てます。年齢に関する前提、性別に関する前提、職業に関する前提、全て捨てます。そして、究極的には、あなたの親が人間であるという前提も捨てて、一つの存在として見つめるようにします。
そこまで心を自由にして、親を見つめると、あなたは、あなたの魂を感じ、そして、あなたは、親の魂を感じることが出来るようになります。そして、あなたの魂と、あなたの親の魂は、お互いを慈しみ合い、お互いを励まし合い、お互いを尊敬しあい、分かちがたく結びついていることを、体験を通じて、実感できるようになります。
さて、私が、あなたに、「親を、一人の人間として見なさい」と言う時、それは、あなたの親という存在の価値を否定しなさいと言っているのではありません。あなたを育ててくれたという親の献身に価値を見出すなと言っているのではありません。親の苦労に、恩を感じるなと言っているのではありません。親の献身に価値を見出してもいいし、恩を感じてもいい。しかし、それを、あなたの世界観における前提にするな、と言っているのです。
「あなたにとって特別な人を特別視するな」と、私は指摘しているのです。あなたの親が、あなたにとって特別な人である(いい意味でも悪い意味でも)のは、当然だから、それはそれでいい。しかし、親を特別視するな、と。
特別の人を特別視しない。特別な状況を特別視しない。特別な任務を特別視しない。そんな精神状態を、私は指摘しているのです。この精神状態は、前章、第五章:親への憎しみの考察、の中の、第四節:私は感情ではない、で触れた、一流アスリートが大一番の試合に臨む時の心境に相当します。
既述した通り、オリンピックに臨むフィギアスケートの選手は、その試合が特別な機会であることは認識しています。認識しているがゆえに、緊張はしています。しかし、彼らの意識は、その認識と緊張によって支配されていないのです。「この試合は特別だ」という想いは、想いでしか過ぎず、まるで空に浮かぶ雲のようなもので、選手は、その雲を眺めて、その想いを抱いていることは認識しているのです。
しかし、その想いを眺めている選手本体(知覚者本体:the perceiver)は、ただひたすら、自己のポテンシャルを開示しようとしているのです。そこの場面が特別だから、自分を開こうとするのではありません。選手自身の内側から、身体の全てを外側へ向けて破裂させるかのような、力が湧いてくるのです。その力に自分自身を委ねて、その力によって自分が開かされるのを許すのです。そうすることで、特別な状況でも、平常心でいられるのです。その時、特別な状況に居るにも関わらず、心が静かであり続けます。この状態が、特別な状態を特別視しないということです。
そのように、あなたは、あなたの親を特別視しないのです。そうすれば、魂が浮上し、あなたの魂とあなたの親の魂が二人を導き祝福しているのを感じることが出来るようになります。あなたが親子関係で苦しむのは、実は、あなたが親を特別視しているがゆえに、魂から乖離しているからなのです。
では、以下に、親を特別視しなくなるように、何を実践するのか、そのメニューを示します。以下のメニューの詳細、実際の訓練は、私が提供するワークショップ「老いてゆく親を見つめるための霊性」もしくは「形而上学101」の親子関係に関する回の中で、紹介します。詳細はそられのワークショップをご参照下さい。
第一項:霊的洞察の咀嚼
瞑想でのアファーメーションや、ジャーナルの記述を通じて、以下に示す三つの霊的洞察・知恵を、あなた自身の中に落とし込もう、消化しよう、受け入れようとしてみてください。
洞察その1:あなたの親があなたに「いのち」をくれたのではない。
あなたの生命力の源、「いのち」そのもの(注1)、私が魂と呼ぶものは、あなたの人生の起点(すなわちあなたの誕生日)よりはるか以前、何百年、何千年の前から存在しています。あなたの両親がこの世に誕生する以前から、あなたの魂は存在していて、あなたの魂は輪廻転生(注2)を繰り返してきました。
(注1) 私のエッセーにおいて、漢字で「命」と記すときは、それは、生物学的、医学的、肉体的な生命活動を差します。ひらがなで「いのち」と記すときは、それは、霊的であり、存在論的であり、あなたという人間を存在せしめるポテンシャルを示しています。
(注2) 輪廻転生が果たして事実なのかどうかの議論はここでは割愛します。しかしながら、心理学の研究で、産まれる前の記憶を語れる人が多数存在することは、実証されています。その点は、強調します。なお、筆者は、輪廻転生を紛れも無い事実とする立場をとっています。
あなた個人が胎児として、あなたの母親の胎盤に宿る以前、あなたの魂は、この物理的なリアリティーの背景(物理的世界とは違う次元)において、ポテンシャルとして存在していました。あなたの「いのち」そのもの、すなわち、魂がそれ自体を、この物理的リアリティーで具現化するのには、その「いのち」の容器である肉体を必要とします。
あなたの「いのち」は、肉体を得るのに、男女のペアの繁殖能力の助けを借りる必要があります。そして、あなたの「いのち」は、何がしかの理由で、あなたの両親を選んだのです。あなたの魂が、あなたの両親を選んだのです。あなたの両親の元で、一人の人間として生きることが、魂それ自体の進化に役立つと、魂は思ったからです。両親の選択が行われたあと、あなたの魂がまずあなたの母親に間借りし、そこに父親の精子がたどり着き、肉体が形成され始めます。
あなたの魂ははるか昔、何百年前、何千年前から存在しており、輪廻転生をくりかえし、あなたの魂が一人の人間として、それ自体を具現化するのに、あなたの両親を選び、両親の助けを借りて、それ自体を肉体化させた、そうして出現したのが、あなた個人の存在です。
ですから、次の点がとても重要なので、咀嚼してください。あなたという存在は、あなたの両親を通じて具現化したのです。しかし、あなたの「いのち」はあなたの両親からもらったものではないのです。あなたの「いのち」は両親がこの世に生まれるはるか昔から存在していました。
あなたの魂からすると、魂が元々存在していたポテンシャルのリアリティ(俗に言うあの世)から、物理的リアリティに移る際に、あなたの両親を通過してきたわけです。いわば、あなたの両親は、あなたの魂の目には、トンネルのような存在として映ります。トンネルを通過するときに、あなたの魂は肉体をまとったわけです。
私は、あなたの両親を、魂が通過するための単なる経路にしか過ぎないと断じて、あなたの両親の価値を無意味化しようとしているのではありません。しかし、あなたは、あなたの両親から「いのち」をもらったのだから、その恩に報いなければいけないと考える必要は、全くないのです。あなたの「いのち」の支援者として、両親に感謝する必要はあるけれども、あなたの「いのち」の提供者として、両親を崇める必要はないのです。
あなたの「いのち」は両親が産まれる前から存在していた。あなたの「いのち」はあなたは両親を通過して、この世に出現しました。あなたの「いのち」は両親からもらったものではないのです。どうかこのことを咀嚼してください。
洞察その2:親孝行は努力目標でしかない。
「親孝行」、これほど我々を苦しめる観念は、他にありません。あなたがあなたの親に十分に孝行できていないと思う時に、あなたは、感覚的に何を感じるでしょうか?あなたは、人間として絶対にやらなければいけないことを、やれていないように感じてしまうことでしょう。あなたは、あなた自身が、非人間的で、非道徳的で、非倫理的な存在であるかのように感じられてしまいます。何か物凄くひどいことをしているようにも感じられます。世間の人から、「人でなし」と指をさされ、糾弾されるようにすら、感じられてしまいます。
あなたが親不孝である時に、あなたが上記のように感じてしまうのが妥当だと思えるぐらいに、あなたは親に悪いことをしているのでしょうか?よく考えてみてください、あなたは、ものすごく悪いことを親にしているのでしょうか?
仮に、あなたが直接、悪意を持って、親を痛めつけているのなら、あなたを「人で無し」と呼んでもいいかもしれません。例えば、親の現金や資産を無断で着服したり、親の名を借りて悪事を働いたり、実際に親を殴りつけたりしたのなら、それは、人倫にもとる、非道な行いです。あなたは、そんな悪行をしているわけではないですよね?
あなたは、おそらく親への献身や支援が十分ではないために、親が不幸せであることに、罪の意識を感じているのでしょう。例えば、あなたの母親が、父親の死後、実家で一人住まいしていて、孤独にあえいでいるのなら、同居して彼女を支えてあげられないことを、罪深いことと感じていることでしょう。しかし、だとしても、あなたが同居してあげられないことが、それほどまでに罪深きことなのでしょうか?
あなたが、生後5か月の、あなたの赤ん坊を、とある空間に放置するのなら、それは極悪非道な行いです。なぜなら、赤ん坊は、判断能力も自身を律する力も、持ち合わせていないからです。あなたの高齢の親を一人住まいさせるということは、明らかにそのケースとは違います。あなたの親は、それがしか判断能力も生活能力もあります。ですから、あなたの親を一人で生活させるということは、赤ん坊を一人にするということと、次元が全く違います。あなたの親を一人にすることは、赤ん坊を一人にするような悪行ではありません。
仮に、あなたの親の痴呆が進んでいて、判断能力も生活能力も失ってしまったのなら、確かに、誰かが親の傍にいて、親を支援する必要はあります。しかし、それは、あなたが同居して支援するかどうかの議論を超えてしまっています。あなたの親が、自分は何者か分からず、自分がどこで何をしているかも判断できない状況になったのであれば、あなたが同居してあなたが一人で介護するだけでは不十分です。複数の人間が常に観察する必要があります。専門の介護師やセラピストの助けを必要とし、ことによれば、専門の施設に入居してもらう必要があるかもしれません。ですから、この場合は、あなたが同居してあげられるかどうかは、あまり問題ではないのです。
あなたの親が現在どういう状況にあり、その状況にどう感じているかは、彼・彼女のこれまでの人生における選択の結果と、彼・彼女の心理的特性によります。彼・彼女が現在、不幸せであるのなら、それは、これまでの彼・彼女の過ごし方の結果なのです。ですから、親の不幸せは、あなたには責任はありません。あなたが、その責任を負っていると感じるのなら、それは幻想なのです。
是非、誤解して欲しくないのは、私は、「親が幸せだろうが、不幸せだろうが、知ったこっちゃない」と冷たく親を突き放せと、言っているのではないです。親を愛し、親の幸せを願い、親の幸せのためにいろいろなことをしてあげたくなる、それはそれでいいのです。私は、既述したように、母親を憎んでいますが、愛してもいますので、母親が幸せになって欲しいし、月に2、3度は電話で話し、彼女の悩みの相談にのり、そして、日本に帰国するたびに、一緒に旅行に出かけ、楽しい時間を過ごしています。
しかし、母親が私との同居を望んでいるにも関わらず、私がそれを実施しようとしないのは、何より私の生活基盤がアメリカにあることと、私が同居したところで、彼女の孤独感を払拭することは出来ないからです。彼女は、自分が愛されていないという被害者意識に囚われているので、誰が傍で生活したとしても、孤独を感じるのは、明白なのです。
母親は、父の死後、長兄と二人住まいで過ごしてきて、2017年に長兄が結婚しても、長兄夫婦は実家に留まり母親と同居をしました。彼女は常に誰かと一緒に生活をしてきたのですが、常に孤独感を感じてきた。それは、長兄夫婦の母親への態度が原因というよりは、母親自身が自分の首を絞めている、自分で自分を孤独にしている、という方が正確なのです。
そして、私は、彼女の、彼女による、彼女のための人生を、尊重したいのです。私が積極的に関与して、彼女の人生の修正を図るのは、得策ではありません。私の母親が今の孤独な状況におかれて、彼女と彼女の魂は、何かを学ぼうとしています。彼女は、自分の価値を再認識する必要性に迫られているのです。
彼女は、これまでずうっと、伴侶から評価される時と、子供から評価される時にしか、自分の価値を感じることが出来なかった。しかし、彼女の本当の、本源的な人間な価値は、誰かの評価で決まるものでは無い、とても深遠で尊いものなのです。彼女は、それを学び、実感しなければいけない。彼女は、今、人生におけるとっても重要な学びの瞬間にあるのです。その学びに干渉することを、私はあまりしたくないのです。今、ここで彼女が学ばないのなら、彼女は、「私は誰からも愛されていない」という被害者意識を来生にも持ち越し、来生においても、ずうっと孤独感で苦しむようになります。
だから、私は、彼女の人生における総まとめを、彼女自身の手で行って欲しいのです。だから、私は、彼女を支援はしますが、干渉はしません。加藤家の皆が、母親のために集まるような機会を設ける際には、私は、リーダーシップを発揮していますが、私が彼女の人生の責任者として、彼女の人生そのものを舵取りするようなリーダーシップを発揮することはしません。私は、彼女の人生を、深く尊重したいのです。
親の幸せについて、その責任を子供は負うべきなのか?私は、NOと言います。例えば、私の娘が、成人して、彼女が、「私(娘)のせいで、お父さん(筆者)が不幸せ」などと感じて、苦しんでいるのなら、それは、私の心をえぐるほどに、辛すぎます。
私は、彼女に、私の幸せの責任なんて負って欲しくない。私を幸せにすることに、義務感など感じて欲しくない。彼女が、私に対して、親孝行しなくていはいけない、などと考えて欲しくはない。彼女が親不孝の罪の意識で苦しむのなら、それは、私自身が十字架にくくりつけられて拷問に処されて、私の肉体から血液がそこら中に飛び散っているかのような強烈な痛みを感じます。私が、彼女に望むのは、私の面倒をみることなのではなく、彼女が幸せな毎日を送ること、ただ、そのことだけです。
あなたは、あなたの子供に、あなたの幸せについて、責任と義務を負わせたいですか?負わせるのなら、あなたの子供は罪の意識で苦しみますよ。負わせたくないですよね?であれば、なぜ、あなたが、あなたの親の幸せについて、責任と義務を負い、罪の意識を感じなければならないのしょうか?
「親孝行」という「観念」は、実は努力目標のようなものなのです。「出来たらいいよね」という類いのものなのです。あなたが、親にそれがしか献身し、親がそれがしか喜んでくれるのなら、それは、それで良かった、というもので、それ以上でもそれ以下でもありません。
親の人生は、親のものであり、それは、あなたの人生でもなければ、あなたのものではありません。親の人生について、そもそも、あなたは責任を負うべきではないし、仮に責任を負って、あなたが全力を尽くしたとしても、親を完全に幸せにすることはできません。親が心の内に抱える、心の穴は、彼・彼女自身が埋めようとしないと、埋まらないのです。あなたには、それを埋めてあげることは出来ません。
であれば、あなたが十分に親孝行できていないのだとしても、あなたが世間から弾劾されるほどの、あなたが「人にあらず」と批判されるような悪事をしているわけではなく、あなたは、それほど罪の意識の中で苦しむ必要は無いのです。
洞察その3:親は、畏敬の対象なのではなく、同情の対象である。
儒教的文化・価値観の中で産まれ育ってきた我々としては、親を崇め奉る対象として感じています。親とは、何かこう、とても貴重で、尊く、ありがたい存在であり、我々は親を敬わなければいけないし、感謝しなければいけない。親が幸せであるために、我々は全力で親に尽くさなければならない。親孝行することこそが、最も崇高な徳である。程度の差こそあれ、我々は、皆、そのように感じているのではないでしょうか?
いわば、親を、神のような存在として感じているともいえます。親の中に、偉大さと権威(力)を見出している。であるから、親に従う衝動を感じ、親に逆らうことに躊躇を感じる。
あなたが成長する過程で、あなたは、あなたの親が言うことが必ずしも正しくは無いことは、既に理解しています。しかし、それでも、親に「NO」と言うことは、あなたにとって勇気のいることなのではないでしょうか?違いますか?
例えば、あなたの人生における重要な選択(職業、結婚相手、居住地、子供の教育)において、あなたの親が、あなたの選択を完全に否定する立場をとり、あなたに「お前(あなた)が、それをするのなら、親子の縁を切る。もう金輪際、この家の敷居をまたぐことは許されないし、お前が私(あなたの親)の顔を見ることもなくなる」と言いつけたとしたらどうでしょう?あなたは、親の反対を押し切り、自分の信念を貫けますか?貫けたとしても、それがしかの罪悪感を感じるはずです。
その罪悪感は、親に従おうとする衝動の反映であり、その衝動は、親を神格化する見方(perspective)に依拠しているのです。あなたは、無自覚のうちに、あなたの親を過度に素晴らしい存在として見ようとしていると言えます。あなたは、親を畏敬の対象にしているのです。
ここで、私は、あなたの親が客観的に、素晴らしい存在なのか、醜い存在なのか、それを議論しようとしているのではありません。あなたが親を見る見方の傾向を指摘しているのです。あなたは、親を素晴らしい存在として見ようとしている。もしくは、あなたの親が素晴らしい存在であって欲しいという願望をもっているとも言えます。(そして、素晴らしい存在として見られない現実に直面すると、あなたは、幻滅し、苛立ちや怒りを感じます)
そして、既述した通り、親を見る見方の硬直性が問題なのです。あなたがそのような特定の見方で親を見るのなら、あなたの心は自由では無いと言えます。あなたは、知らず知らずのうちに、「私の親は素晴らしい存在、尊敬に値する存在である」という前提を通じて、親を見つめようとします。そのような前提を持ち続ける限り、あなたの意識は魂から切り離されてしまいます。
その前提を捨てて、あなたの心を自由にするために、是非、ここで、あなたの親を、単なる一人の人間、として見つめてみようとしてください。あなたを育てた人だから感謝しなくてはいけないという前提を一旦捨象してみてください。父親と母親を、丸裸の一人の人間として見てください。彼の人間臭さ、彼女の人間味、に触れて、それを感じてみてください。すると、彼、彼女がどのように映りだすでしょうか?
あなたの親は、見栄っ張りで、自分のことばかりを正当化し、他人を見下し、人の悪口を言いもすれば、小さなことでウジウジ悩んだりもする。何か困苦に陥った際は、勇気をもって、その問題にチャレンジするというよりは、ことなかれ主義で、小心者で、他力本願で、誰かがその問題を解決してくれるのを待っている。自分の苦しみは、人のせいにして、文句ばかりを言う。程度の差こそあれ、そんな、尊敬できない一面を、見出すことは出来ますよね?
そして、次の気づきがとても重要ですので、咀嚼してください。あなたの親は、実は、あなたが気づいているよりも、強く不安を感じていて、怯えていて、それから逃れようともがき苦しんでいるのです。あなたの父親と母親は、彼自身の、彼女自身の問題を抱えており、深く悩んでいるのです。
あなたの親の内面は、実は、あなたが感じているよりも、ずっと幼いのです。彼らのインナーチャイルドは、「誰も私(あなたの親)をかまってくれない」と嘆き、安全な場所を求めてさまよい、実は、今、この瞬間にも、「誰か、私を見て!」「誰か、私を
抱きしめて」と叫び、泣き崩れているのです。
あなたの親が、子供であるあなたに接する際には、強がって、それをあなたに感づかれないようにします。あなただって、あなたの子供には、あなたの不安が察っせられないように、あなたは子供の前では強がりますよね?しかし、あなたの親は、あなたが気づいている以上に、実は苦しんでいるのです。
例えば、既述した通り、私の幼少期、私の父親は、私にひどい暴力をふるいました。当時は、それを、私を愛する故の教育的指導だと理解していましたが、成人後、人の心の営みについて造詣を深めると、父の暴力がそんなに美しいものではないことが分かりました。
父は、単に、彼自身が安心できるように、暴力に訴えかけても、私を服従させたかっただけなのです。子供が従属する限り、彼は安心できたのです。なぜ、それが必要だったのか?それは、彼も、彼の幼少期に、彼の父(私から見て祖父)からひどい暴力を受けたからです。
祖父から暴力を受けている瞬間、父親は、「殺される」と生命の危機を感じました、私が、それを、父の暴力にさらされた時に感じたように。それを繰り返し体験した結果、彼は、物事が何かうまく推移しない瞬間、そのレベルの危機が彼に襲ってくると、無意識の内に感じるようになりました。彼は、常に怯えるようになり、そのため、彼のリアリティを支配して制御する必要性に駆られるようになりました。
そんな彼にとって、子供(私)がむずがったり、言うことを聞かない瞬間というのは耐えられません。なぜなら、子供(私)が言うことを聞かない瞬間とは、現実が制御不能な混沌とした状態になっているように彼には感じられ、その混沌に触れた際には、彼の内側で祖父に蹂躙された恐怖が喚起されて、彼は生命の危機にさらされているように感じるのです。そして、彼は、彼を生命の危機にさらしているのは、私だと錯覚して、私を殴ったわけです。
彼は恐怖の中にあり、そうであるがゆえに、私を殴った。私が、それを理解した時、不思議と彼に対する親近感のようなものが湧きました。私が苦しんでいるように、彼も苦しんでいる。一人の人間として、私が完璧でないように、彼も完璧ではない。それが分かると、彼に向けて慈しみの感情すら芽生え、彼の暴力を許せるようにもなりました。
そのように、親を慈しみの対象と見るようになると、親子関係のモード(様相)が完全に変容します。
親を畏敬の対象として見ているときは、親に対する「親は素晴らしい存在だから、私は親に尽くさなければいけない」という理性的な理解により、あなたは行動(実際の奉仕)をひねり出そうとします。思考があなたをリードしています。あなたは、あなたの頭脳がやるべきと考えることを、親に施そうとします。このとき、あなたの魂は沈黙します。
親を慈しみの対象として見ているときは、実は、「見ようとしている(理解しようとしている」のではありません。親の苦しみを「感じようとしている」のです。あなたの心を開いて、それを親の心にアクセスしようとしている。心と心を振れ合わせて、親の痛みを感じようとしている。その時、あなたの魂が浮上し、とても深い慈しみを放射し始めます。あなたは、親に、ごく自然に優しく出来る(優しくするべきだから優しくするのではなく、本能的に優しく出来る)ようになり、親を許せるようになります。
あなたが、あなたの魂の慈悲により、親を抱擁できるようになるために、是非、親を畏敬の対象として見るのを放棄しようとしてみてください。
第二項:親から特別視してもらう必要性を解消する
本章本節では、あなたが「本当のあなた」(魂)を体験できるようにするために、心が自由である必要性を説き、あなたが親を特別視しないことを推奨しています。本項では、親を特別視しない、もう一つ別のアプローチを紹介します。
あなたが親を特別視する、必要以上に親を素晴らしい存在だとして認識しようとするのは、あなたが儒教的価値観の中で産まれ育ったことだけが理由なのではありません。他にもいくつかあるのですが、特に注目すべきなのは、あなたが親から特別視されたいという願望をもっていることです。
つまり、あなたは、無意識の内に、あなたの親に、次のような取引きを持ち掛けようとしているのです。「私(あなた)は、あなた(あなたの親)を特別視するから、あなた(あなたの親)も、私(あなた)を特別視して欲しい」と。あなたは、あなた自身が親にとって特別な存在になることによって、自分の価値を感じて、安心したいのです。その願望があるがゆえに、あなたは親を特別視しようとするのです。あなたは、そんな契約を親と結ぼうとしている。
そこで、あなたが親から特別視してもらう必要性を放棄できれば、自然と、あなたが親を特別視する必要性も無くなっていくのです。そのために、次に示す、内省(introspection)、もしくは内面探索(inward
exploration)を行ってください。
次の問いを自問自答してください。「私は、何のために生きているのか?」特に、「私は、親から褒められるために生きているのか?」ということを問うてください。そして、内側から湧いてくるものを、批判も、何の判断もせずに、ただひたすら感じようとしてみてください。
親から褒められると嬉しさを感じるのは、確かに、その通りです。だから、あなたの内側で、「親から褒められたい」という欲求は存在します。しかし、あなたは、その欲求を満たすために生きているのしょうか?あなたの人生とは、親から認められるため、親から褒められるために存在するのですか?
違いますよね?あなたは、親から認められるために生きているわけでもなければ、親から褒められるために生きているわけでもない。では、何のために?
この内省を十分に深く行えば、あなたは、あなたの内側奥深くから、何か温かいもの、何か柔らかいもの、が、あなたの外側に向かって溢れようとしているのを、感じられるようになります。それを、愛と呼べるかもしれない、それを、情熱と呼べるかもしれない、それを、感動と呼べるかもしれない。何か優しいものが、あなたの周りの存在を祝福しようとしている。そんな、エネルギー、意志、温かさの動きがあるのです。
そして、その動きを現実世界の中で、何がしかの方法で表現すること、それこそが、あなたの存在の目的であることを悟ります。それを表現するために、あなたは生きているのです。その動きは、魂の動きであり、あなたがそれを自覚する瞬間とは、あなたが魂と結びついた瞬間なのです。
あなたが内省をすることで、あなたの生きる目的が、親から褒められることにあるのではなく、あなたの内側の、とても純粋で優しいエネルギー・想いを、自然に表現することにあることに気づいて欲しいのです。それに気づけば、親か特別視される必要性が無くなり、親を特別視する必要性も無くなります。その時、あなたの魂が浮上し、あなたとあなたの親の関係が、魂によって祝福されていることを実感するようになります。
第七章へ
|